【はじめに】
本レポートを読んでいるあなたは、きっと何かしらの悩みを抱えているのでしょう。そして悩みを解消する手段として、アドラー心理学に可能性を感じている・・・・・そうですよね?
本格的にアドラー心理学を学びたいと思ったら、それなりの時間が必要です。岸見一郎先生によるアドラーの翻訳本だけでも7冊あり(参考:アドラー・セレクション)、それらの書籍をすべて読んで理解し、実生活に落とし込むだけでも、それなりの時間が必要になるはずです。
実際問題として、アドラーの翻訳本を読んでみたところで、よくわからないのが普通だと思います。(少なくともわたしはそうでした。)
ですからまずはアドラー心理学に関する入門書(おススメは『嫌われる勇気』と『幸せになる勇気』のいわゆる勇気二部作)などを読みつつ、並行して関連情報をインプットしつつ、少しずつアドラー心理学への理解を深めていく・・・・というのが「よくある」学習方法だと思います。
わたし自身、アドラーだけでなく、フロイト、ユング、ジャック・ラカン、コフートなどの心理学に加えて、近代哲学やギリシア哲学、社会学・経済学・宗教学などの知見を、時間をかけて蓄積していくなかで、アドラー心理学への理解を少しずつ深めていきました。もちろん、いまでも現在進行形で学習し続けています。
そもそもわたしは医師免許をもっておらず、大学教授でもありません。ひとりのコーチであるわたしが、あなたにアドラーを語る資格があるのでしょうか?
先日、東京の目黒駅前にあるバスロータリーを歩いていたら、紙の地図をもった高齢者の女性から「ここにいきたいのですが、どうすればいいですか?」と質問されました。
わたしは目黒駅周辺の地理にくわしかったので、すぐに道順を伝えることができました。高齢者の女性は安心した表情になり、ものすごく喜んでくれたので、わたしも安心しました。
本レポートを通じて、わたしがやりたいことも、同じようなことです。
スマートフォンについて知りたければ、分厚いマニュアルを読めばいいのです。しかしスマートフォンで電話をしたりLINEするだけであれば、ほんの少しのコツがわかれば十分です。マニュアルを熟読する必要はないはずです。
同様に、アドラーについて知りたければ、アドラーの関連書籍を全部読めばいいのです。しかしあなたの悩みを解決する手段としてアドラー心理学を利用することだけに限定すれば、ほんの少しの知識だけで事足りるかもしれないのです。
見知らぬ土地で道に迷ったとき、地図とにらめっこしたり交番を探すよりにも、その辺を歩いている地元の人に聞いたほうが早いでしょう。アドラー心理学ついても同様です。
とはいえ・・・・・目黒でわたしに道を質問した高齢者の女性と、コミュニケーションがスムーズにできたのは、高齢者が「紙の地図」をもっていたからです。
そこでわたしは本レポート「アドラー虎の巻」を執筆することにしました。あなたがわたしに相談するにせよ、ご自身でアドラー心理学を学ぶにせよ、有益な話をするつもりです。是非、最後までお付き合いください。
勇気の哲学
仏教の理解は空(くう)に始まり空に尽きる。仏教のエッセンスは空・・・・・なんてことは誰でも知っています。しかし「知っている」と「理解している」には、隔たりがあります。
たとえばインド第一と言われたヴァスバンドゥという高僧は、どうしても空が分からないので、憔悴の果てに自殺することにしました。
そのとき、弥勒菩薩(みろくぼさつ)が兜率天(とそつてん)から出稽古して、空とか何かを特訓してくれたおかげで、ヴァスバンドゥはようやく空がわかったとか。
宗教はよくわからない方には、経済のほうがわかりやすいかもしれません。経済の勉強はGNPに始まりGNPに尽きます。経済のエッセンスはGNPです。
GNPとは国民総生産のこと。GNPは「経済の顔」のようなもの。医者が患者の顔を見れば、元気か、病気か、などいろいろなことがわかるように、GNPをみれば景気、失業、貿易収支、利子、株価、地価など、いろいろなのことの傾向をつかむことができます。
さて・・・・・アドラーのエッセンスはなんでしょうか?
アドラーのエッセンスは「勇気」です。アドラー心理学の勉強は、勇気にはじまり勇気に尽きます。繰り返しになりますが、アドラーのエッセンスは勇気です。
アドラーは「すべての悩みは、対人関係の悩みである」という認識から出発し、「嫌われる勇気」や「幸せになる勇気」を発揮することができれば、「あるがままの自分」でいられると考えたのです。
とはいえ、仏教を学びたい人に「すべては空である」とアドバイスしても理解されないのと同様に、アドラー心理学を学びたい人に「勇気をもて!」とアドバイスしたところで、有益なアドバイスにならない可能性が高いでしょう。
どうすればアドラー心理学のエッセンスを、短時間で理解できるでしょうか?
わたしは目黒で道に迷った高齢女性に対して、地図をみながら3つのことを説明しました。「1.現在地はココです」、「2.目的地はココです」、「3.道順はこうです」。シンプルな説明でしたが、高齢女性は満足してくれたようでした。
本レポートでは、アドラー心理学のエッセンスを同じような手順で説明したいと思います。具体的には・・・・・
まずは「1.すべての悩みは、対人関係の悩みである」というアドラーの基本的な認識について説明します。
次に「2.あるがままに生きる」という目的地に関するテーマについて説明し、最後に「3.勇気を発揮する手順」について説明していきます。
1.対人関係の悩み
『母という呪縛 娘という牢獄』という本があります。教育虐待により9年間浪人した女性(娘)が、母を殺害した「滋賀医科大学生母親殺害事件」の背景を探った1冊です。
母は娘に医学部に入学してほしいと願っていました。娘は母の期待に応えるために必死に勉強するのですが、母の期待を満たすことが出来ません。極限まで追い詰められた娘は、母の呪縛から逃れるために・・・・・モンスター(母)の殺害を決意したのです。
極端な事例を紹介しましたが、わたしたちのもろもろの苦しみは、人がみな「他人の価値観」のなかで生きなければならないということに起因します。
たとえば・・・・・家柄・年収・資産・体重・身長・学歴・容姿・勤務先・肩書・雇用形態・居住地域 ・・・・・etc、わたしたちが一喜一憂するモノサシはすべて生まれた後に学習する「他人の価値観」であって、あなた固有の価値観ではありません。
ここで質問です。わたしたちは「いつから」他人の価値観のなかで生きるようになるのでしょうか?
精神分析では「言語をインストールしたときから」と考えます。「リンゴ」でも「これは美しい」でも、当たり前ですが、言語は自分自身ではありません。
言語というものは、まわりにいる他人を参考にしてインストールするものです。わたしたちは、まわりにいる他人の言葉の使い方を真似ることで、言語を習得します。
そして言語を習得するということは、ある環境において、物事をどう考えるかの根本のレベルで「洗脳」を受けることなのです。これは非常に根深い問題で、日常生活のなかで自覚することはほとんどありません。
そう。わたしたちは言葉ひとつひとつのレベルで「他人の価値観」を刷り込まれているのです。言葉を換えれば、わたしたちは言語を通して「他人の価値観」に乗っ取られているのです。
他人の価値観
『東大なんか入らなきゃよかった 誰も教えてくれなかった不都合な話』という本があります。
あなたも親や教師から『勉強しろ!』といわれた経験があるかもしれませんが、東京大学に入学しても幸せになれるとは限らないのです。なぜならば東京大学を卒業すると「東大卒」というラベル(≒言葉)のイメージによって、世間から評価されてしまうからです。
たとえばミス東大→タレントになった八田亜矢子さんは「東大まで行ってそんなことして」「東大でこの程度」と批判されたそうです。「東大卒」というラベル(≒言葉)のイメージにより、世間の人から評価されることが、悩みの原因になってしまうのです。
また昨今ではマッチングアプリで結婚するカップルも珍しくありませんが、マッチングするための検索条件は「属性」という名のラベル(≒言葉)になっています。そのため属性によっては検索結果にヒットせず、この世に存在しないも同然の扱いを受けてしまう可能性だってあります。
マッチングアプリだけでなく、就職試験や住宅ローンの審査でも「属性」は重要な評価基準になっており、わたしたちは「属性」という名のラベル(≒言葉)から逃れることができません。
一体いつから、わたしたちは「他人の価値観」(≒属性)に乗っ取られるのでしょうか?
哲学者デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」という有名な言葉があります。この世界のすべては幻想かもしれないけど、いま考えている自分という存在だけは確実だ、という意味です。しかし本当のそうでしょうか?
精神分析はデカルトに否定的です。なぜならば「わたしは考える」考えるとき、その「わたし」という言葉はすでに「本物の私」の代替物になっているからです。
たとえば東京大学卒の男女が「東大卒」というラベル(≒言葉)で認識されるのと同様に、わたしたちは自分のことを「わたし」という言葉で認識する他ないのです。しかし原理的に「わたし」と「本物の私」が一致することはないのです。
はじめに言葉ありき
『新約聖書』ヨハネの福音書には「はじめに言葉ありき、言葉は神と共にありき、言葉は神であった」という一節があります。人間が話す言葉が人間よりも先に存在し、それがすなわち神であるという意味です。
わたしたちが生まれる前から「言葉」はあります。わたしたちは「わたし」という言葉で「本物の私」を認識し、成長するにつれて複雑な言葉を使いこなすことで、文化やルールといったものを学習していきます。
たとえば日本語には「兄」や「弟」という言葉がありますが、英語では「兄」も「弟」もまとめて「Brother」(ブラザー)です。つまり日本語の「兄」や「弟」という単語のなかには上下関係という概念が含まれており、わたしたちが日本語を学習することは、日本文化をインストールすることなのです。
また「赤信号を渡ってはいけない」とか、「暴力はいけない」とか、「公共の場では静かにする」といったルールも言葉により学習します。
だいたい人間は、教わらなければ何もできません。人間はあらゆる行動を、それこそケンカやセックスに至るまで、後天的に学習によって修得します。そして人間の学習のほとんどが言葉の助けを借りて行われるのです。
しかし言葉というものは、学習を助けてくれる便利なツールになる一方で、「罠」にもなり得るのです。
閉じこめるズルい言葉
『10代から知っておきたい あなたを閉じこめる「ずるい言葉」』という本があります。言葉を習得することで「他人の価値観」が「本当の私」を覆い隠してしまうことがよくわかる一冊です。しかしわたしたちは日常生活において、そのことにあまりにも無自覚です。
わかりやすい話をひとつ紹介します。人間はどうして、鏡にうつるイメージを自分のことだと信じることができるのでしょうか?
精神分析では、鏡に映る自分の姿に興味関心のある子どもに対して、周りの大人が「そう、それはお前だよ」と保証することで、子どもは「これがわたしなんだ」という認識をもつようになると考えます。
しかし鏡に映る自分は「本当の自分」ではありません。その証拠に、紙に「わたし」と書いて、自分の顔と一緒に鏡をのぞいてみましょう。当然のことですが、「わたし」という文字は反転しています。
つまり鏡に映るあなたの顔も反転しており「本当の私」ではないのです。しかしわたしたちは、鏡に映る自分を「本当の私」だと錯覚して日常生活を送っています。
同様に、「仕事とはこういうものだ」、「社会とはこういうものだ」、「わたしが欲しいものはこれだ」とあなたが信じているすべての現実は、あなたが受け入れた言葉によって成立しています。
ようするにわたしたちは「本当の現実」を認識することはできず、わたしたちは言語というフィルターを通じてしか「本当の現実」を認識できないのです。そして「本当の現実」と「言葉による現実」とのギャップがわたしたちを苦しめる原因にもなっているのです。
わたしたちはどうすれば・・・・・苦しみから逃れることができるのでしょうか?
具体的な方法について説明する前に、苦しみから逃れてどこを目指すのか?という目的地に関する話をしておきたいと思います。
2.あるがままに生きる
野生動物は生まれて間もなくエサを探すことができます。しかし人間の場合、生まれてから死ぬまで他人の助けなしで生き延びることは不可能です。
そのためわたしたちは、他人のいる世界で生きるために、言語というツールを利用して「文化」や「ルール」や「他人の価値観」といったものを、ほとんど強制的に学習させられます。
ようするにわたしたちは、言語により「一般性」を獲得するからこそ、顔も名前も知らない人たちと一緒に、複雑な社会を営むことが出来るわけです。
しかし言語をインストールすることの弊害もあります。そのことは見過ごせない問題です。どのような問題があるのでしょうか?
そもそも言語は他人に理解されることを前提にしています。実際問題として、「自分にしか理解できない言語」なんて意味ないですよね?
しかしすべての物事が他人に理解されるわけではありません。「他人に理解されるとは限らないもの」もあるわけです。しかし「文化」や「ルール」や「他人の価値観」を尊重する社会で生活しているうちに、わたしたちはそのことをついつい忘れてしまうのです。
精神分析では「他人に理解されるとは限らないもの」を「特異性」といいいます。「特異性」とはなんでしょうか?
特異性とはなにか?
「特異性」と似たような言葉に「個性」がありますが、特異性と個性は似て非なるものです。たとえばゆとり教育の時代には「個性を伸ばせ!」と盛んに叫ばれていましたが、個性とはあくまでも学校や社会といったシステムに適合する限りで認められるものでしかありません。
わかりやすくいえば個性とは、既存のモノサシにおいて「プラスの意味がある」と認められているものです。だからこそ「個性を伸ばす」ことが推奨されるわけです。
その一方で、特異性というのは学校や社会からはみ出す過剰な何かのことです。そのため「特異性とはなにか?」ということについて、言葉でうまく説明しようと思ってもムズカシイのです。そこで本レポートでは動画の力を借りたいと思います。
是非、我武者羅応援団(がむしゃらおうえんだん)団長、武藤貴宏さんの「人生の醍醐味」というタイトルの講演動画を視聴してみてください。(1分31秒~)
勇気の哲学
ちまたで一般的に「個性」といわれているものは、社会の価値観に依存しています。そのため承認欲求に結びつきやすいという特徴があります。
その一方で特異性は「他者がどう評価しようと、これが自分だ」と開き直って受け入れるしかないようなものです。なぜならば特異性は「他人に理解されるとは限らないもの」だからです。
たとえば、(さきほど紹介した動画に登場する)我武者羅應援團の武藤貴宏さんの特異性は「応援団」でした。
あなたの学生時代を想像してみてください。もし仲の良い友人から「応援団に入りたいんだけど?」と相談されたら、あなたは友人にどんな言葉をかけるでしょうか?「やりたいなら、やってみなよ!」と背中を押してあげる可能性は十分にあるでしょう。
しかし大学を卒業して社会人になったあなたの友人が「応援団をつくりたい」と言い出したら・・・・・「一体、なにを言い出すんだ?」と、あなたは戸惑うのではないでしょうか?
そう。わたしたちは日常生活のなかで「一般性」を優先させる一方で、「特異性」を忘れて生活しています。そのため社会のなかでそれなりにうまくやっている人ほど、「特異性」を受け入れることに対する抵抗感が強いのです。
しかしながらアドラー心理学の目的である「あるがままに生きる」ことを目指すのであれば、特異性を受け入れることは必要不可欠なのです。どうすれば「特異性」に対する抵抗感をうち破れるのでしょうか?
ここで勘のいい方なら気づいたかもしれません。アドラー思想についてのロングセラー本、「嫌われる勇気」や「幸せになる勇気」のタイトルには、いずれも『勇気』という単語が使われているのですが、これは偶然ではないのです。
一般性と特異性の衝突
人は誰しも「みなと同じでありたい」、「社会の中で成功したい」、「他人に好かれたい」と願うものです。そのため「一般的な基準」に見合った人間になろうとすればするほど、心の奥底に特異性を封印することになります。
しかし特異性を封印することはできても消去することはできません。我武者羅應援團の武藤貴宏さんの場合、心の奥底に封印していた「応援団」への思いを消すことはできませんでした。一般性と特異性の衝突。その結果が、もろもろの悩みや症状となってわたしたちを苦しめるのです。
とはいえ、「一般性をすべて捨て去って、特異性の中だけで生きるべきだ」というような暴論を主張したいわけではありません。なぜならば一般性を捨てるということはすなわち、他人とうまくコミュニケーションするための文化・ルールなどを無視することにつながるからです。
そこでアドラー心理学においては、「すべての悩みは、対人関係の悩みである」ことを認めた上で、つまり一般性を重視する社会にしっかりと足をつけた上で、「あるがままに生きる」とか、「自分が自分でいられる」ことを目的にするわけです。
ではここでいう「あるがままに生きる」とか、「自分が自分でいられる」というのは、具体的にはどのようなイメージなのでしょうか?
たとえば自分の特異性を『芸術』で表現する場合もあれば、我武者羅應援團の武藤貴宏さんのように『新規ビジネス』を創造する人もいるでしょう。あるいは、自分の特異性を受け入れない『社会の変革』を目指すことが「あるがままに生きる」ために必要なことになるかもしれません。
もっとわかりやすい事例は、「ジョジョの奇妙な冒険」という漫画にあります。
ジョジョの奇妙な冒険の第四部に、岸部露伴というキャラクターが登場します。岸部露伴は天才的な漫画家で、静かな環境で創作に打ち込むことを無上の喜びにする本物のナルシストです。
あるとき岸部露伴は、敵に襲われて窮地に陥ります。敵は岸部露伴に対して、命を助けてやるかわりに仲間を裏切ることを提案します。岸部露伴は「本当に助けてくれるのか?」といったんは誘惑にのったフリをしつつ、次の瞬間、「だが断る」と言い放ちます。
本物のナルシストである岸部露伴は、仲間に迷惑がかかるから敵からの提案を断ったのではありません。仲間を裏切るという美しくない行為に手を染めたら、自分が自分でいられなくなってしまう。だから、「だか断る」と言い放ったのです。
あなたにとっての「あるがままに生きる」とか、「自分が自分でいられる」というのは、どのようなイメージでしょうか?
3.勇気を発揮する手順
さきほど紹介した動画を視聴していただければわかると思うのですが、さきほどの岸部露伴の話には続きがあります。
岸部露伴は、仲間である仗助(じょうすけ)に「逃げろ!」と叫びます。しかし仗助は逃げません。仗助は、仲間を見捨てて逃げる男ではなかったのです。
岸部露伴は、仗助の態度にイラつきます。なぜイラつくのでしょうか?岸部露伴曰く、「(仗助は)必ず僕の考えていることと逆のことをする。だからお前のことが嫌いなんだ!」
社会で生きる以上、他人からの影響をゼロにすることはできません。あなただって他人に何かを期待し、その期待が裏切られた場合には、失望するかもしれません。逆もまた然りでしょう。
しかし忘れてはいけないことは「あなたは他人のために生きているのではない」し、逆もまた然り、ということです。
どうすれば・・・・・他人の価値観にどっぷり浸った状態から、「あるがままに生きる」とか、「自分が自分でいられる」状態に近づくことができるのでしょうか?
勇気スパイラル
アドラー心理学では、「1.他者貢献」⇒「2.自己受容」⇒「3.他者信頼」のスパイラルを回し続けることが推奨されています。

たとえば「アドラー虎の巻」をあなたにプレゼントすることも、わたしにとっては「1.他者貢献」のひとつです。
そして他者貢献をすれば、あなたからのフィードバックを糧に成長することができます。(2.自己受容)
さらに他者貢献によるコミュニケーションが、あなたへの信頼(3.他者信頼)につながり、新たな「1.他者貢献」に踏み出す勇気をくれるのです。
わたしはこのスパイラルを「勇気スパイラル」と名付けています。なぜならば「1.他者貢献」⇒「2.自己受容」⇒「3.他者信頼」のスパイラルを回すエネルギーは『勇気』であり、回せば回すほど『勇気』が湧いてくるからです。
ようするにアドラー思想の実践とは、他者たちと交流するなかで「他者貢献」を繰り返し、「みんなはこういうことを求めているんだ」ということを学んで経験値を高め、自分はたいてい大丈夫という尊厳(自己受容)と、他者への信頼を育てていくことなのです。
昔も今もそして将来も、人間が社会的な動物である限りにおいて、アドラーの思想は有効でしょう。しかし・・・・・勇気スパイラルを回すことは、現代人にとっては至難の業なのです。なぜでしょうか?
そのあたりの事情は、「嫌われる勇気」や「幸せになる勇気」でも説明されていないので、触れておきたいと思います。
不安スパイラル
現代日本を観察すれば、勇気スパイラルを回している人は少数派で、ほとんどの人は「不安スパイラル」を回していることに気づくはずです。
不安スパイラルとは「1.競争」⇒「2.挫折/優越」⇒「3.損得」で構成されています。ネーミングのとおり、回せば回すほど不安が大きくなるのが特徴です。

不安スパイラルの代表例は「受験」です。受験戦争という競争があり、合格すれば優越感に浸り、不合格なら挫折感にまみれ、損得勘定で次の行動を決めることが当たり前になります。(例:偏差値を目安にして、志望校を決める)
大学を卒業して就職すれば安泰・・・・・であればよいのですが、残念ながら・・・・・不安スパイラルを回すかぎり競争は終わらないのです。
なぜならば、負け組になれば「勝ち組になるために頑張れ!」と発破を掛けられ、勝ち組になれば「負け組にならないために頑張れ!」とアドバイスされ続けるからです。
不安は解消するどころかますます大きくなり、競争を続ければ続けるほど周りのライバルも強くなるので、プレッシャーも大きくなっていきます。
そして競争を続けていると自分でも気づかないうちに、他人や自分を評価するモノサシが、「偏差値」などの「他人が決めた基準」になり、「他人が決めた基準」を受け入れることに慣れているうちに、「あるがままの自分」がわからなくなってしまうのです。
生き方の問題
「嫌われる勇気」が大ヒットして、読者から「いい本でした!」、「役立ちました!」と声をかけられた時、著者の岸見一郎さんが「本当かな?」と疑問に思ったそうです。なぜでしょうか?
アドラーの思想を実践するとはつまり、「不安スパイラル」を回すのではなく「勇気スパイラル」を回すことを意味します。そして多くの人にとっては、「生き方」を変える必要が出てきます。
つまり岸見一郎さんは、嫌われる勇気を読んで、「いい本でした!」、「役立ちました!」というような感想をもらす人は、「嫌われる勇気」の内容をほんとうに理解しているのだろうか?と疑わざるを得なかったのです。
「不安スパイラル」を回せば、人間関係が希薄になります。なぜならば周囲にいる人間が、競争相手つまり「敵」になるからです。しかし裏を返せば・・・・・競争に勝ち続けることができれば、煩わしい人間関係から距離を置くことも可能になります。
一方で「勇気スパイラル」を回せば、人間関係が濃密になります。なぜならば周囲にいる人間が、協力するべき「味方」になるからです。しかし裏を返せば・・・・・煩わしい人間関係とも無縁ではいられません。
アドラー心理学は、人間関係を構築する具体的なヒントを提供してくれるのでしょうか?
「嫌われる勇気」や「幸せになる勇気」を読めば、アドラー心理学には「課題の分離」、「共同体感覚」、「導きの星」、「自己受容」、「他者貢献」、「他者信頼」、「今ここを生きる」など、人間関係を構築する上で役立つ概念をたくさん発見できるはずです。
ここで重要なことは、アドラーの概念はあくまでも「勇気スパイラル」を回すためにあるのであって、「不安スパイラル」を回すためにあるのではない・・・・・ということです。
「不安スパイラル」を回している人がアドラーの思想を取り入れようとすれば、アドラーの思想が「机上の空論」にしか思えず、逆に苦しむハメになるでしょう。
あなたは「不安スパイラル」を回しますか?「勇気スパイラル」を回しますか?
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