戦前の行動右翼、戦時中の軍国主義者、そして戦後の新左翼に至るまで、アノミーの特徴を色濃く刻印していることを確認してきました。
そして今回は、昭和50年代から現在に至るまで話題になり続けている「ロッキード事件」においても、アノミーの特徴が見られることを紹介します。
ちなみにロッキード事件の年表については以下のページが詳しいです。
罪の意識がない人々
ロッキード裁判では、若狭得治(わかさとくじ)被告(全日空会長)ら6人への有罪判決が下され、小佐野賢治被告(国際工業社主)に対しては、実刑判決が下りました。
若狭得治被告(全日空会長)には執行猶予が付いたとはいえ、検察側の主張をすべて認めた上での判決なので有罪の意味は重大です。
ところが若狭得治は全日空会長を辞任しようとはしません。全日空も若狭得治をかばい、「裁判で実刑をくらっても辞めさせない」と宣言し、そのとおりになりました。
小佐野賢治被告(国際工業社主)になると、1年の実刑を食らっても「何ら公職にあるわけではないから」といって有罪判決を恥じる様子もありませんでした。そして「自分の会社の大部分は、自分がオーナーだから」と主張し、前科者であろうと関係ないとばかりに振舞いました。
さらに田中角栄ともなると「一審有罪間違いナシ」という予測が多いにも関わらず、昭和57年(1982年)の正月には空前の年始客を集め、「来なかったのは鈴木善幸(元総理大臣1980年~1982年)だけ」と豪語し、権力を握っていることをアピールしました。
田中角栄はロッキード事件のまっただ中にいながらにして、目白の闇将軍、政界最大の実力者、キングメーカーとして君臨しつづけたのです。
以上、ロッキード事件に関わった汚職関係者には「罪人としての意識が驚くほどない」という共通した特徴が見られました。しかも世間もこのことを必ずしも問題にしませんでした。
なぜロッキード事件に関わった汚職関係者たちは少しも罪の意識をもたず、日本人もそのことを問題にしなかったのでしょうか?
民主主義の敵
当時の丸紅の担当重役として、ロッキード事件に直接関わった(全日空のトライスター機売込み活動をしていた)大久保利春は、被害者意識をあらわにして、次のように嘆いています。
いつの間にか決まってしまっていた非合法なことを、これまでと同じようにやったんだから、わたしは知りません。わたしは会社の命令で航空機商戦に邁進した一人の商社マンなのです。
要するに大久保利春は、「自分の主体的決断ではない」ということを主張しているのです。とはいえ、法を破ってまで企業利益を守らせるとは深刻な決断ではないでしょうか?
しかも大久保利春は、ロッキード事件追求のために国会に証人として喚問(呼び出して、問いただすこと。)されているのですが、さんざん偽証の限りを尽くしました。国権の最高機関である国会で偽証するような人間は、いわば「民主主義の敵」です。
企業利益のために法を破り、民主主義の敵になるなんて、一体どういう神経をしているのでしょうか?
大久保利春の言い分
大久保利春の言い分はとても興味深いものがあります。
まず大久保利春は、「自分がトライスターの機種を決定したのではない」というのです。社内にいろいろな委員会があり、その決定が重役会に上がり、ということを繰り返しているうちに、いろいろなことが決まっていくというのです。
つまりわたしではなく全員がそれを決めたのであって、「決断した主体はいない」といっているのです。そして驚くべきことに、企業のトップですら例外ではないというのです。
そして実はこのことこそが、全日空や丸紅に限らず、組織的な汚職全体に共通している特色でもあるのです。
所属する集団の要請にできる限り忠実であろうとする行動の過程で、自らの意思決定というものが蒸発してしまって、どこかに消えてしまうのです。
だから組織的な汚職が発覚してあとから振り返ってみると、罪の意識を持つ人間がどこにも存在しなくても、なんら不思議なことではないのです。そしてさらに興味深いことに、メディアも世間もあまり大久保利春を糾弾しませんでした。なぜでしょうか?
犯罪者の心情がわかる日本人
大久保利春について、新聞は「罪と左遷の狭間で」とか「商社員の悲哀まざまざ」などの見出しをつけて、かなり同情的に扱いました。
一般のサラリーマンのなかにも「ロッキード事件で、国会や裁判で偽証をするなんて許せない。しかし自分が同じ立場だったら、同じようなことをしただろう。」という意見が少なくなかったのです。
だから組織的汚職の関係者は、誰も罪の意識をもたず、世間もあえてトコトンまで罪を追及しようとはしなかったのです。結果として、日本全体が想像を絶する無規範(無責任)状態に覆われるような状態が完成したのです。
しかもロッキード事件では、無規範状態だけでなく無目的性も顕著です。
目的性とは「ハッキリした目的を達成するためにいかにすべきか?」ということです。つまり目的性を発揮するためには、ハッキリした目的と、その目的を達成するための明確な意思決定に基づいた合理的な計画が必要になります。
ところが日本では、意思決定という考え方自体が事実上ほとんどないのです。日本では官庁、企業、学校などにおいても、重要事項は明確な決断主体がどこにもないまま、いつの間にか決まってしまうことが珍しくないのです。
歴史を振り返れば
歴史を振り返れば、東京裁判で裁かれたA級戦犯たちは、大川周明を除き、全員が口をそろえて「内心、忸怩(じくじ)たる思いはあったが、空気には逆らえなかった」といっていました。
大川周明は、戦前の右翼思想家。ナチス=ドイツにおける「カールシュミット」のような存在。精神が狂ってしまったことにより、東京裁判中に東条英機の頭を叩いた奇行でも有名。
なんたる無規範(無責任)でしょうか?しかし歴史的な事実として、日本は空気に抗えずに無目的に戦争をしたのです。
「無目的に戦争した」ということに驚く人もいるかもしれません。しかし日本陸軍は「先祖の英霊に申し訳がない」という理由で、本国の反対を押し切ってガンガン支那(シナ:当時の日本における中国の呼称)を攻め続け、「どこまで攻め続けたら戦争をやめるのか?」ということを誰一人としても考えていなかったのです。なんたる無目的性でしょうか?
戦時中の日本人にしても、組織的犯罪に手を染める会社員にしても、決断の契機に基づくコントロールをまったく欠いているのですから、どうなるかわかったものではありません。
現代日本人は、まさにカーナビが壊れた自動車をなんとなく運転しているかごとく、目的地につくかもしれないしつかないかもしれないという状況を続けているのです。
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