大学と会社共同体の結婚

銀行に勤めていたわたしの友人がこんな話を教えてくれました。友人の同僚が銀行の支店に勤めていたとき、どうしても1円足りず、支店中が大騒ぎになったそうです。

銀行の支店が早い時間に閉まるのは、その日1日の取引の伝票や現金を締める作業があるからです。帳簿上の1円でも現金が合わないと、金額が合うまで作業が続けられます。

わたしの友人の同僚は、「たった1円で大騒ぎするなんて生産的じゃない」と判断したようで、自分の財布から1円を補充したのですが、この行為が大問題になり、左遷されてしまったのだそうです。

同僚の誰もが「今すぐにでも転職したほうがいい」と思ったそうです。なぜならば評価が戻る可能性は、事実上ゼロだからです。しかし当事者がすぐに会社を辞めることはなかったそうです。

なぜ自分の将来が明るくないことがわかっているのに、わたしの友人の同僚は、会社を辞めなかったのでしょうか?

日本の会社は共同体

日本の会社は欧米にはない「共同体」という特徴をもっています。戦前の日本は「天皇制国家」という共同体と、「村落共同体」という共同体の2つをもっていました。そして戦後にそれらが解体されていく過程で、特に高度経済成長以降に「会社」が共同体の役割を果たしてきました。

日本で会社が共同体になったことの意味は、欧米と比較するとより明確になります。欧米では「会社」は、共同体ではなく「機能集団」です。会社で働くのは「労働の対価として給料をもらうため」であり、それ以上でもそれ以下でもありません。

ですから欧米の労働者にとっては、働くのが嫌になったら転職したり、退職したり、起業するのが当然で、日本人のような「会社に対する特別な感情」はありません。たとえば日本には「会社に裏切られた」という人がいますが、会社をまるで大切な人であるかのように信じる心の習慣は、欧米人にはないのです。

そう。いまだに日本では会社を「家族」と表現する人が多いのですが、ここでいう「家族」には「共同体」という意味合いが含まれているのです。

職場の人間同士で冠婚葬祭を祝ったり、家族手当や社員福祉施設などという、欧米人には理解できない風習や制度に対して、日本人がなんら不思議に思わない理由は、会社が共同体の役割を果たしているからなのです。

社名で人生が決まる

会社が共同体になると、原理上は、加入したいときに加入することも、脱退したいときに脱退することもできません。

新入社員はまるで赤ちゃんのように会社に入り、会社独特の言葉を覚え、会社の文化にどっぷりつかって、死ぬまでそこにいることになります。もし会社から抜け出せば、山で遭難した人のように飢え死にする他ないのです。

日本人の労働者の中には、「わたしは共同体の一員である」という意識が強い人がいます。たとえば他人から「あなたのお仕事は?」などと質問されると、「エンジニアです」ではなく「三菱の社員です」というように、職種ではなく会社名を答える人もいます。

そして親会社の社員は威張り、子会社の社員は小さくなり、孫会社の社員はさらに小さくなる・・・・ということが繰り返されるうちに、人はどこの会社に属するかによって、評価されるようになるわけです。

つまり日本人にとって、会社に入る前提として「どこの大学に入るか?」が決まる18歳までは、いわばヒンズー教徒にとっての『現世』なのです。現世でどれだけ苦労するかで来世が決まってしまうので、受験勉強を頑張るのは至極当然のことなのです。

そして大学に入学すれば「大学は人生の踊り場」という言葉もあるとおり、4年間の自由な時間を獲得し、企業に入社すれば共同体の構成員として死ぬまで働くことになるわけです。

大学入試は神聖なもの

日本人にとって大学受験は「カースト」が決まる神聖な儀式なのです。輪廻の思想を信じている敬虔なヒンズー教徒は、熱心に戒律を守ります。戒律をちゃんと守れば、来世においてより高いカーストに生まれ変わることができると信じているからです。

「よい大学・よい企業・よい人生」というのは、日本人にとっての輪廻の思想であり、だからこそ「よい大学」を決める大学受験が、日本人にとっての何人も侵すことの許されない「神聖なもの」になっているのです。

聖なるものと俗なるものの分離に成功したことで「近代社会」が誕生するわけですが、聖なるものと俗なるものが癒着している日本社会は、この先どうなっていくのでしょうか?

■  次はコチラ

choushi 作為の契機と民主主義の崩壊

■ 『教育』の記事一覧

kyouiku2 『教育』の世界(OLD)