【空(大乗仏教)#4】愚管抄

前回は「ミリンダ王の問い」という書物にある「車の譬(たと)え」を紹介しました。「車の譬(たと)え」でお伝えしたかったことは、空の論理は形式論理学を超えているということです。

すなわち、空は有(ゆう)でもなければ無(む)でもないこと、空は有(ゆう)と無(む)を超えて、統合したところにあるものであることを説明したかったのです。つまり空は有(ゆう)や無(む)よりも抽象度の高い概念なのです。

一切は空

「一切は空」であることを図示せよといわれれば、上図のようになります。つまり「一切は空」であるということの意味は、有すなわち「ある」ものと、無すなわち「ない」が、同時に存在していることを意味しているのです。

要するに空は「有であると同時に無でもある」のであり、だからこそ「一切(すべてのもの)は空」なのです。

とはいえ「一切は空」であるといわれても、「あるのかないのか?黒白ハッキリしてほしい」と考えるのが現代人の心境ではないでしょうか?

そこで今回の講義では、空の論理の理解を深めてもらうために、『愚管抄』(ぐかんしょう)の著書として知られている慈円(じえん、1155~1225年)の歌を紹介したいと思います。

慈円の歌

ひきよせて むすべば柴の 庵にて とくればもとの 野はらなりけり

愚管抄

「庵」とは草木を結ぶなどして作った質素な小屋のことです。僧や世捨て人が仮住まいとしていました。庵は「建築する」とはいわず、「結ぶ」といいました。

慈円の歌では「柴をひきよせて結べば庵ができるが、結んだ柴を解いてしまえば、そこには何もない」ということをいっています。つまり慈円はここに空があるといっているのです。

慈円の歌に沿って、庵は、あるのか?ないのか?という問いに答えるのであれば、以下のようになります。

庵の有無への答え

柴を結べば庵はある。結び目を解けば庵はない。

したがって、庵は、あるともいえるし、ないともいえない。

庵の存在、つまり有無は、「結び」にかかっている。

結べば庵はあるし、結ぶまではなかった。結びを解けば、庵はなくなる。

縁起とは「関係性が存在を生み出す」という意味でした。慈円は、柴と柴の関係性が「庵」を生むと描写することによって、縁起の思想を明快に表現しているのです。

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