村上春樹の「羊をめぐる冒険」のなかに、1970年11月25日という日付が何の脈絡もなく登場します。1970年11月25日は何の日でしょうか?
1970年11月25日は作家の三島由紀夫が憲法改正のため自衛隊の決起(クーデター)を呼びかけた後に割腹自殺をした日です。
村上春樹ほどの人気作家にも大きな影響を与えた三島由紀夫は、16歳で作家デビューし、東京大学法学部を卒業後、当時の最強官庁であった大蔵省に入省するという経歴の持ち主です。
三島由紀夫は大蔵省に入省後わずか9か月で辞職し、作家に専念したのちは、数々の賞を受賞し、ノーベル文学賞にもノミネートされていたそうです。
ノーベル賞受賞の必須条件は「生存していること」なので、三島由紀夫がノーベル賞を受賞することはありませんでしたが、繊細かつ理性的な三島由紀夫作品には、今でもファンが多いです。
さて……三島由紀夫の話題を切り出した理由は、三島由紀夫の遺作『豊饒の海』が仮観への理解を深める上で役立つからです。
難解な「豊饒の海」
『豊饒の海』という作品は、仏教の知識がないと到底、理解不能な作品です。なぜならば作品のテーマが『唯識』(ゆいしき)の徹底解説だからです。
唯識(復習)
唯識(ゆいしき)については以前、宇多田ヒカルさんの歌を引用しながら「空」について説明した講義で解説した時のことを思い出してください。
復習のために唯識の教義を一言で表現しろといわれたら「この世は幻」という教えのことです。具体的には「人間の「識」(しき)以外にはなにものも実在しない。実在するとするのは妄想にすぎない」という教義のことです。
縁起の思想について何も知らない時のあなたであれば「この世は幻」といわれても、「は?え?どういうこと?」と困惑するだけでしょうが、今のあなたなら「この世は幻」という考え方を理解しつつあるはずです。
例えば現代社会には……SNS上でしか交流していない人と恋愛・結婚したり……SNSに書き込まれた誹謗中傷により自殺したり……AIに説得されて自殺する人もいるのです。一昔前では到底考えられません。
「SNSの書き込みが原因で自殺するなんてアホらしい」と思う人は、「この世は幻」という考え方を理解していない人です。今のあなたならSNSの書き込みが原因で自殺する人の気持ちが理解できるはずです。
なぜならば手で触れることのできる物理的な空間の世界であろうと、データのやり取りでしかない情報空間の世界であろうと、その人にとっての現実は「臨場感」のある世界が優先されるからです。
例えば映画・小説・ドラマに熱中しているとき、人は物理的な空間よりも情報的な空間にリアリティー(臨場感)を感じます。そのことはあなたの実体験からも理解できるはずです。
以上が、ここから先のお話をする前に理解しておいてほしい前提知識になります。それではざっと、「豊饒の海」のストーリーを紹介したいと思います。
ストーリーの構成
豊饒の海は、「春の雪」(第一巻)、「奔馬」(第二巻)、「暁の寺」(第三巻)、「天人五衰」(第四巻)の全4部作です。この小説は一般的には『輪廻転生』(りんねてんせい)の物語と紹介されることが多いです。
第一巻に登場する松枝清顕(まつがえきよあき)にはじまり、第二巻、第三巻、第四巻はそれぞれ飯沼勲(いいぬまいさお)、月光姫(ジン・ジャン)、安永透(やすながとおる)といった具合に主人公が転生していき、その様子を副主人公である本多繁邦(ほんだしげくに)が夢の中で観察するという構成になっています。
つまり主人公が松枝清顕⇒飯沼勲⇒月光姫⇒安永透と輪廻転生していく物語なのですが、第四巻にて大どんでん返しが用意されています。
なんと……松枝清顕⇒飯沼勲⇒月光姫までは順調に輪廻転生していたはずなのに、安永透はそれまでに登場する人物とは全く異質の存在として登場するのです。
輪廻転生の様子を夢の中で観察していた副主人公の本多繁邦は驚愕し、真偽を確かめるために第一巻の主人公である松枝清顕のかつての恋人「綾倉聡子」(あやくらさとこ)を訪ねるのでした。
松枝清顕のかつての恋人「綾倉聡子」は、本多にこう語ります。
松枝清顕(まつがえきよあき)さんという方は、お名をきいたこともありません。そんなお方は、もともとあらしゃらなかったのと違いますか?
何やら本多さんが、あるように思うてあらしゃって、実ははじめからどこにもおられなんだ、ということではありませんか?
綾倉聡子の言葉を聞いた本多は、本多がそれまで大切にしてきた松枝清顕の夢日記を焼き捨てるのでした。三島由紀夫は何を表現したかったのでしょうか?
物語を素直に解釈すれば、三島由紀夫の主張を推測することができます。三島由紀夫の主張とはズバリ「人間の魂が輪廻転生することはない」です。
毒矢のたとえ
三島由紀夫の「人間の魂が輪廻転生することはない」という主張に、驚愕する人も多いはずです。なぜならば輪廻転生は仏教の根本思想であり、もしあの世がないとしたら仏教を信仰すること自体に疑義が生じてしまうからです。
しかし実は……仏教の開祖である釈迦は、あの世について「無記」としています。つまりノーコメントとしかいっていないのです。
これは初期の経典である阿含経(あごこんきょう)にしっかりエピソードが残っています。弟子に「死後の世界はあるのでしょうか?ないのでしょうか?」と問われた釈迦は、このように答えました。
毒を塗った矢が飛んできて身体に刺さったとします。そのとき、この矢はどこから飛んできたのだろう、この毒の種類は何だろうか、誰によって射られたのだろうか、などと考える前にまずやることがあります。
それは、すぐに矢を抜くことです。
つまり「あの世」などという不確かなものについて考えることにエネルギーを使う暇があったら、今の目の前の現実に対処すべしと釈迦は主張しているのです。
輪廻転生などという釈迦本来の教義とはいえない概念が現代に伝わっているのは、なぜなのでしょうか?
乱暴にいってしまえば、仏教のことなどよくわからない一般人に抵抗なく仏教を受け入れてもらうためでしょう。仏教の真理なんか凡人にわかるはずがないと思った仏教の偉い坊さんたちが、恐ろしくわかりやすいバラモン教やヒンドゥー教の教義を仮に使って、布教に努めたのだと思います。
万物流転
「人間の魂が輪廻転生することはない」という発想は、釈迦の縁起を知っていればすぐに受け入れることができるはずです。
縁起とは「関係性が存在を生み出す」という思想ですので、そもそも「人間の魂」が「ある」ことを前提にしている時点で、輪廻転生は釈迦の教えでないことは明白です。
これまでの話を整理しましょう。
「すべては関係であり、実在するものは何もない」(この世は幻)という教えが、縁起や唯識の思想でした。
そして「すべては関係性である以上、関係性が変わればすべては移り変わる」というのが仮観の思想です。一言でいえば「万物流転」(ばんぶつるてん)ということであり、三島由紀夫が「豊饒の海」という四部作の長編小説で表現していることです。
「豊饒の海」という作品に沿っていえば、主人公の全員(松枝清顕も、飯沼勲も、月光姫も、安永透)が、『仮のもの』(≒仮観)なのです。
そして勘のいい方であれば、「もしかして自分も仮のものなのだろうか?」という疑問をもつことでしょう。そのとおり、あなたも「仮のもの」なのです。
その証拠に、あなたが「あなた」だと思っている存在も刻々と移り変わる存在です。事実、生物学的にも人間の細胞は一定周期で生まれ変わることがわかっています。
つまり細胞が入れ替わる前の「あなた」と、細胞が入れ替わった後の『あなた』は、別人だという解釈も可能になるというわけです。
他にも成功者へのインタビューで「昔はどんな子どもでしたか?」という質問がありますが、この質問の前提にも「時間が経過すれば別人になる」という認識があるのです。
そしてわたしが伝えたいことは、今のあなたと子どもの頃のあなたが別人であるのと同様に、「昨日のあなた」と「今日のあなた」と「明日のあなた」もそれぞれ別人なのです。
「昨日のあなた」が不幸せだったとしても、「明日のあなた」が不幸である保証はありません。同様に「昨日のあなた」が幸せだったとしても、「明日のあなた」が幸せである保証はないのです。
■ 次はコチラ
