個別の宗教について解説する前に、宗教の大まかな分類に触れておきたいと思います。
宗教には「啓典宗教」と「それ以外の宗教」があります。これはイスラム教徒における宗教分類なのですが、宗教を比較する上で便利なので紹介します。
啓典とは?
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は「啓典宗教」です。その一方で、仏教、儒教、ヒンドゥー教、道教、法教(中国における法家の思想)は啓典宗教ではありません。
啓典とは『最高教典』のことです。「啓典」とは、絶対であるかほとんど絶対のものです。それぞれの宗教における啓典は、どのようなものなのでしょうか?
ユダヤ教の啓典
ユダヤ教における啓典は『トーラー』です。トーラーとは、モーセ五書のことで、『旧約聖書』の最初の五巻のこと。すなわち「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記(しんめいき)」が、ユダヤ教における啓典です。
旧約聖書は本来、ヘブライ語で書かれていたはずなのですが、ヘブライ語の啓典は現存していません。そこでギリシャ語の啓典を以て、本来の啓典に代えるということになっています。
キリスト教の啓典
キリスト教において何を啓典とするかの議論は千年以上も続いています。「黙示録」や「旧約外典」を啓典に入れるのか入れないのか厳しく議論されていますが、旧約聖書39巻、新約聖書27巻を啓典とするという方向で議論が収束しているようです。
95年ごろローマの迫害下にある小アジアの諸教会のキリスト教徒に激励と警告を与えるために書かれた文書。 この世の終末と最後の審判、キリストの再臨と神の国の到来、信仰者の勝利など、預言的内容が象徴的表現で描かれている。 ヨハネ黙示録。 アポカリプス。
【引用:コトバンク】
外典(がいてん)またはアポクリファ(Apocrypha)とは、ユダヤ教・キリスト教関係の文書の中で、聖書の正典とされる『旧約聖書』39巻、『新約聖書』27巻以外の文書のことで、旧約外典、新約外典がある。 「Apocrypha(アポクリファ)」とはギリシア語のαπόκρυφος(隠されたもの)に由来する言葉である。
【引用:Wikipedia】
イスラム教の啓典
イスラム教の啓典は、『コーラン』です。
旧約・新約とは?
『聖書』に、「旧約」と「新約」の二種類がありますが、旧約とは「古い契約」、新約とは「新しい契約」という意味です。
ユダヤの民が神と結んだ契約を、イエスが更改したために、旧(ふる)い契約を記したものを「旧約」、新しい契約を記したものを「新約」と区別しています。
ちなみに「旧訳」、「新訳」と誤記しているものも見かけますが、「旧訳」、「新訳」は仏教経典を指す用語です。
仏教がインドから中国に渡った時に経典の中国語訳が行われています。四世紀末から五世紀初頭にかけて活躍した鳩摩羅什(くまらじゅう/くまらじゅ)の訳を「旧訳」と呼びます。
その一方で、七世紀に国禁を犯して16年(629年にシルクロード陸路でインドに向かい、ナーランダ僧院などへ巡礼や仏教研究を行って645年に経典657部や仏像などを持って帰還)に及ぶ収経の長旅を遂げた玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)の訳を「新訳」と呼びます。
仏教の最高教典は?
仏教は啓典宗教ではありません。仏教には「教相判釈」(きょうそうはんじゃく)という仏教の経典の優劣と位置づけを行う方法論があり、宗派によって最高教典が異なります。
教相判釈のはじまりは天台智顗。天台智顗は【法華経】を最高としてここに釈迦の真意があるとしたのですが、それ以降はそれぞれの宗派が教判(教相判釈の略)によって、最高教典を決めました。
中国梁・陳・隋時代の僧。天台宗の開祖。(538~79年)
たとえば華厳宗(けごん)の最高教典は【華厳経】。
日本真言宗の最高教典は【金剛頂経】(こんごうちょうきょう)と【大日経】(だいにちきょう)。
日蓮宗の最高教典は【法華経】、浄土宗の最高教典は、【大無量寿経】(だいむりょうじゅきょう)・【観無量寿経】(かんむりょうじゅぎょう)・【阿弥陀経】(あみだきょう)の三部経です。
「如是我聞」(にょぜがもん)すなわち「このように私は釈迦から聞いた」と最初に書けばなんでもお経になるといった具合なので、仏教の経典は膨大にあります。
啓典宗教の本質は?
啓典宗教は存在論すなわち「オントロジー」に貫かれています。存在論といわれてもピンとこないと思うのですが、存在論とは「そもそも世界はどうなっているか?」ということです。
だから啓典宗教における最大の問題は、世界を創った「神の存在」なのであり、事実、キリスト教の神学テキストを読めば、神の存在証明には膨大なページが割かれていることがわかります。
そのため「神が存在しない」などと主張する人がいたら、その人はキリスト教徒でもなければ、イスラム教徒でもなければ、ユダヤ教徒でもないのです。
そして神の存在が【狂信】を生むのです。なにせ啓典宗教における教義(ドグマ)は絶対なのであって、ドグマには従わなければいけません。例えば神が「異教徒を殺せ」と命じたのであれば、異教徒は殺さなければいけないのです。
啓典宗教を理解できない日本人にとって、恨みや利益のない殺人という発想はないでしょうし、人を殺さずに済むのであれば殺さないほうがよいと考えるでしょう。しかし狂信者にとっては殺人であっても正義になり得るのです。
このことはカルト教団にしてもキリスト教団にしても一緒です。教義(ドグマ)に従うのが「宗教の核心」なのであって、そのドグマが正しかろうが間違っていようが、宗教はドグマに従うのです。
というよりもドグマだから「絶対に正しい」のです。だからこそ(繰り返しになりますが)宗教は恐ろしいのです。
■ 次はコチラ
(準備中)
■ 『宗教』の記事一覧