【空(大乗仏教)#3】車の譬(たと)え

今回の講義では、難解このうえない「空」を見事に説明した「車の譬(たと)え」を紹介します。

「車の譬(たと)え」は、仏教入門としても昔から人々に愛好されたストーリーの一つです。こむずかしい話は一つも出てきませんので、リラックスしながら読み進めてください。

ギリシャ論理学 VS 仏教論理学

哲学がもっとも発達したギリシャと、仏教発祥の地インドが正面きって対決したことがありました。

その一部始終はパーリ語で書かれた「ミリンダ王の問い」という書物で紹介されていますが、今回はその一つのエピソードである「車の譬(たと)え」について紹介します。

ミリンダ王の問い

名君として知られていたミリンダ王(ギリシャ名はメナンドロス)は、紀元前160~140年頃にインドに侵入し、西インドのシアルコット(現パキスタン)を首府としてインドを統合した人物です。

当時のミリンダ王は哲学の教養は豊かで論客としても知られており、「弁舌(べんぜつ)と論鋒で向かうところ敵なく」という状態だったため、インドを「印度(インド)はいまや知的なもみ殻にすぎぬ」と見くびっていました。

強大な権力を握っていたミリンダ王が、初めて真の知的優越者ナーガセーナ長老に出会った時、以下のように問いかけました。

ミリンダ王
ミリンダ王

尊者よ、あなたは何という名なのですか?

ナーガセーナ
ナーガセーナ

大王よ、私はナーガセーナと呼ばれています。しかしながら、大王よ、ナーガセーナというのは、実は名前のみにすぎないのです。そこに人格的個体は認められないのであります。

ナーガセーナの発言を聞きとがめたミリンダ王は、以下のようにさらに問いかけます。

ミリンダ王
ミリンダ王

人格的個体はないというあなたが、ナーガセーナと呼ばれているところのものは、いったい何ものなのか。

髪か?爪か?皮膚か?肉か?骨か?心臓か?涙か?尿か?物質的な形か?形成作用か?、それらの合体したものか?

ナーガセーナはミリンダ王のいずれの問いにも以下のように答えます。

ナーガセーナ
ナーガセーナ

そうではない。

部分でもなく、全体でもなく、それらのほかにナーガセーナがあるのか?とたたみ込んでも、「そうでもない」と返答するナーガセーナの論理は、ミリンダ王の理解を超えていました。

ミリンダ王のアタマのなかにあるのは、形式論理学であり、集合論だからです。

形式論理学の発想

ミリンダ王に対するナーガセーナの回答は形式論理学を否定するものです。形式論理学を否定するためには、仏教の超論理学を納得させるしかありません。

仏教の超論理学とはすなわち「空」の論理なのですが、ナーガセーナはどのようにしてミリンダ王に空を理解させたのでしょうか?

ナーガセーナの応酬

ナーガセーナ
ナーガセーナ

大王は、ここまで歩いてやってきたのですか?

ミリンダ王
ミリンダ王

車で来た。

ナーガセーナ
ナーガセーナ

大王よ。もしもあなたが車でやって来たのであるなら、何が車であるかを告げてください。

大王よ。轅(ながえ、馬や牛につなぐため車の前に長く伸びた二本の柄)が車ですか?

ミリンダ王
ミリンダ王

そうではない。

ナーガセーナ
ナーガセーナ

では車とは、軸でしょうか?車輪でしょうか?車体でしょうか?それらを合したものでしょうか?それら以外に車があるのでしょうか?

ミリンダ王
ミリンダ王

そうではない。

ナーガセーナ
ナーガセーナ

では、そこに車はないのでしょうか?そこに存在する車は何ものなのでしょうか?車とは、単なる名前だけのものなのでしょうか?

ミリンダ王は、ここにきて空を悟るのです。

ミリンダ王
ミリンダ王

轅(ながえ)に縁(よ)って、軸に縁って、車体に縁って<車>という名前が起こるのです。

ナーガセーナ
ナーガセーナ

そうです。大王よ、あなたは車を正しく理解されました。それと同様に、私にとっても、形に縁って、感受作用に縁って、表象作用に縁って、形成作用に縁って、識別作用に縁って、<ナーガセーナ>という名前が起こるのであります。そこに人格的個体は存在しないのです。

小乗から大乗への架け橋

ミリンダ王の問いで紹介したエピソードのように、車を車輪などのいくつかの構成要素に分解してみせて、車という実体はないと説明するやり方を「析空観」(しゃっくうかん)といいます。

析空観は小乗仏教の説く空なのですが、大乗仏教の空を説明する今回の講義において取り上げたのには理由があります。実は……「析空観」は、大乗仏教における「空」を理解する上で、最適な橋渡しなのです。

あなたは空について考えれば考えるほど、「あるのかないのか?」ということがわからなくなりませんか?

わたしは「ある」と思っていたものが「ない」ということに気づいた時、なんだかムナシイ気持ちになりました。なぜならば空という概念を単純に理解しようとすれば、「この世に存在するものはすべて無である。」という解釈も可能だからです。

実際問題として中国において「空」は「無」と同じ意味であると誤解されましたし、日本語の「空」にも「からっぽ」のニュアンスがあるので、現代日本でも「空」はしばしばニヒリズムの象徴だと勘違いされています。

しかし大天才ナーガールジュナはその誤解を解き、空をニヒリズムから救い出すことに成功したのです。大天才ナーガールジュナの理屈は「『ある』ものが『ない』のではない。『ある』ものは『もっとある』のだ」というカンタンなものです。

先ほど紹介したミリンダ王の問いにおける「空」の概念を図示すると、そのことが想像しやすいと思います。

空の論理

大乗仏教では存在そのものを空であると見なします。ひらたくいえば、あらゆるものは関係性によって成り立つということです。

そして関係性を辿っていけば、その関係性は日本、アジア、地球、太陽系、銀河系……そして宇宙全体へとひろがっていくのです。無限に広がっていく関係性こそが、「あるものはもっとあるのだ」の意味なのです。

最後に

キリスト教では実在論が大前提になっています。ひらたくいえば、神の存在を認めることが信仰の出発点です。ですから「神は存在しない」と断言すれば、その人はキリスト教徒ではありません。

その一方で仏教徒は、「仏なんぞいない」と断言しても平然としていられます。例えば破天荒の秀才といわれた法然(ほうねん。浄土宗の開祖。1133~1212)が、仏について栄西(ようさい。臨済宗の開祖。1141~1215。)に質問した時に、こういわれたそうです。

栄西
栄西

仏などいない。いるのはタヌキとキツネばかりである

仏の存在を否定する人が、仏を肯定し、仏に礼拝し、仏像をつくっても、矛盾はないのです。なぜならば、一切は空だからです。

「一切は空」だといわれたところで、形式論理学を絶対的な前提としている人には理解不能でしょう。しかし今回の講義で「ミリンダ王の問い」を知ったあなたには理解できるのではないでしょうか?

ナーガールジュナの論法、すなわち空の論理は、形式論理学を超えているのです。

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