同調圧力への処方箋#1:物語を疑え!

お笑い芸人のバカリズムさんは、高校時代に学校側と交渉して、丸坊主や防寒具に関する校則を変更してもらったそうです。

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https://youtu.be/UiEwb0HgUSk?t=2310

バカリズムさん曰く、学校側と交渉した結果、学校側は防寒具について4、5万円するダサいピーコートの着用しか認めなかったそうです。バカリズムさんは言います。「裕福なダサいヤツしか着なかった」と。

「戒律を守った人間だけが救われるのであれば、戒律を守る余裕のある金持ちや暇人だけが救われる。それでいいのか?」とイエスが喝破した問題提起を思い出させるエピソードです。

なぜ目覚めることが重要なのか?

さて、日本の教育では親も教師も「勉強しろ!」「ルール(校則)を守れ」と連呼しており、第三の帰属(アイデンティティー)や第四の帰属(世界とのつながり)については教えてくれません。

正確に言えば、学校が子どもを抱えこんでいるかぎり……日本的学校化(学校一元化の状態)を放置する限り……第三の帰属(アイデンティティー)や第四の帰属(世界とのつながり)について子どもが実感することは、ほとんど不可能でしょう。

ここで改めて考えてみましょう。なぜ第三の帰属(アイデンティティー)や第四の帰属(世界とのつながり)に目覚めることが重要なのでしょうか?

嫌な仕事は淘汰

タイミーというスキマ時間で仕事を探せるサービスがあります。

実際に利用している人に話を聞いたのですが、「嫌な仕事をしなくて済む」のがポイントなのだそうです。また雇用者側にとってもドタキャン率の高い人材や評価の低い人材を避けることができるため、メリットがあるそうです。

「仕事は探せば他にもある」「労働者は探せば他にもいる」という状況が、日本社会で重要になる理由は「同調圧力に負けない」ためです。

同調圧力のどこに問題があるのか?といえば、「誰がどういう理由でそれを選択したのか?」という責任の所在が、不透明になってしまう点にあります。

反オウム運動の結果

地下鉄サリン事件以降、反オウムの地域活動が盛んになりましたが、なぜ反オウム活動をしているのでしょうか?

公安調査庁が喧伝する「オウムの危険」が本当かどうかは別にして、自分たちでオウムの危険を分析・評価しているのでしょうか?それとも空洞化した地域社会にありがちな漠然とした不全感を、オウムをダシにして取り戻そうとしているのでしょうか?

「A2」という映画があります。オウム真理教の広報副部長やオウムの一般信者たちにカメラを向け、オウム事件の本質に迫った森達也監督の代表作なのですが、驚くべきシーンがあります。

反オウム活動に熱心だった人たちが、いざオウムの信者たちが地域からいなくなる時に「お別れ会」を開き、名残惜しそうな表情をしているのです。

なぜオウム信者が自分たちの地域からいなくなることが名残惜しいのかといえば、オウム信者たちがいなくなることで地域社会の「反オウム」という結束がなくなるからです。

いじめの場合も同様の現象がみられます。

いじめの加害者も、いじめの被害者も、周りの人たちも……憎いから誰かをいじめているのか?仲間とある種の気分を共有するためにいじめているのか?いじめへの同調を拒否して逆に自分がいじめられる側に回るのが嫌でいじめているのか?……ということを、あまりよく理解していないのです。

同調圧力に負けない

第二次世界大戦の研究において、日本には戦争の決断主体がなかったことが明らかになっています。日本国中が戦争に熱狂しているようでありながら、戦争を決断した人間は誰もいなかったというのです。

その証拠に、東京裁判でA級戦犯たちは口々に「忸怩(じくじ)たる思いはあったが、空気には抗えなかった」とコメントしています。

同調圧力が個人を特定の行動に駆り立てるが、ある日突然ハシゴを外される……ということは、日本では珍しくないのです。

戦争に熱狂していたのはA級戦犯というよりはむしろ日本国民なのですが、敗戦処理のなかで日本国民は悪くなく、A級戦犯だけが悪いというストーリーがでっち上げられました。

このような戦後処理はあくまでも「手打ち」です。戦後処理を早く終わらせて時代を先に進めるために、責任をすべてA級戦犯に押し付けて、国民の罪を「なかったこと」にしたのです。

もちろんA級戦犯が全部悪いなんてストーリーが「ネタ」であることは、当時の日本人なら誰もが知っていました。しかし戦争を知らない世代が多くなると「ネタ」が「ベタ」になってしまったのです。

喉元過ぎれば熱さを忘れる

わたしたちはいろいろなストーリーを生きています。日本語では「道を踏み外す」という慣用句がありますが、そこでいう「道」とは「ストーリー」のことでしょう。

ストーリーの力は強大で、いまだに昭和すごろく的な「いい学校・いい会社・いい人生」というストーリーを信じている人がたくさんいます。

「嫌われる勇気」の続編である「幸せになる勇気」のなかで、哲学と宗教の相違点、境界線はどこにあるのか?と問われた哲人はこう答えています。

最大の相違点は「物語」の有無でしょう。宗教は物語によって世界を説明する。言うなれば神は、世界を説明する大きな物語の主人公です。それに対して哲学は、物語を退ける。主人公のいない、抽象の概念によって世界を説明しようとする。(中略)

歩みを止めて竿の途中で飛び降りることを、わたしは「宗教」と呼びます。哲学とは、永遠に歩き続けることなのです。そこに神がいるかどうかは、関係ありません。

幸せになる勇気

「いい学校・いい会社・いい人生」というストーリーを信じることは、物語によって説明された世界を生きるということです。

同調圧力に流されて「物語」を信じるのもほどほどに!

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