堀越学園高校生殺人事件の被害者である光男くんは、万引きをしました。しかし光男くんの万引きという行為は、あくまでも「無規範」なものでした。また母親への暴力は「無目的」であり、暴れること自体が目的であったことを説明しました。
以上、アノミー状態にいる者が生み出す暴力の特徴が、「無規範」であり「無目的」であることを説明したわけですが、最後に「盲目的予定説」であることについて説明しておきたいと思います。
盲目的予定調和説
盲目的予定調和とは、どのような考え方なのでしょうか?おそらく「予定調和」と「盲目的」の2つの概念をそれぞれ説明するとわかりやすいと思います。
まず予定調和説とは、キリスト教の概念で「何がどうしてどうなっても、あらかじめ与えられた結果が実現される」とする考え方のことなのです。この予定調和に「盲目的」を追加するところに、盲目的予定調和説の最大の特徴があります。
予定調和説を信ずるといったところで、因果律から解放されるわけではありません。「神が選んだからわたしは天国にいける」というように、A⇒Bというような因果についての発想があるのが普通です。しかし「盲目的」予定調和説には因果についての考慮が全く見られないのです。
つまり「実現される未来」があるとしても、それがどのような経路をたどって実現されるのか?ということを考えるのが普通の感覚であるはずです。しかしその普通であるはずの感覚が全く欠如しているのが盲目的予定調和説なのです。
たとえば「我こそは選ばれたエリートなりと自覚する人が、自分の信じることに従って、特定のなすべきことを行えば、途中の因果関係は一切考慮しなくてもいい。やるべきことをやれば、予定調和の鉄則がうまく作動して、本人も知らぬところで何もかもうまくいって、ことが成就する。」というような発想が、盲目的予定調和説の正体です。
エリートたるゆえん
光男くんは家族にいろいろなことを要求しましたが、肝心かなめの論理がありませんでした。
例えば「今から引っ越すから不動産屋についてこい。この近所は気に入らない。」と両親に要求し、拒否されると不動産屋に次々と電話をするのですが、午後5時頃から電話したため不動産屋から断られて、ようやく電話をするのを諦める、といった具合です。
「何がどうしてどうなっても、あらかじめ与えられた結果が実現される」しかも「途中の因果関係は一切考慮しなくていい」わけですから、まさに光男くんこそが盲目的予定調和説の信奉者であったのです。
ここで「光男くんはエリートではないでしょ?」という疑問が湧く人もいると思うので一言。エリートたるゆえんは、「成し遂げた結果」ではなく「存在そのもの」にあることを考えれば、光男くんのエリート性が理解できるはずです。
かつて政治家の大野伴睦は「猿は木から落ちても猿だが、代議士は選挙に落ちればただの人」という名言を残しました。しかし2世議員、3世議員が当たり前の昨今では、選挙に落選しても周囲はエリートとして扱ってくれます。
水戸黄門にしても、薄汚いジジイだと思っていたら、権中納言(ごんのちゅうなごん)徳川光圀公だということが判明すると、もうこれで一件落着。光圀公は、プラプラしているだけで何をしているわけでもないのに、天下の副将軍だという理由で、誰もがハハーっといって頭を下げなければならないのです。
2世議員・3世議員や水戸黄門と同様に、家庭のなかでは光男くんが何をするか?ということは、一切彼の存在に影響を及ぼさなかったのです。事実、母親に暴力をふるって病院送りにしても、家庭における光男くんの地位は微動だにしなかったのです。そう。光男くんのエリート性は限られた範囲内ではあっても完璧だったのです。
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