わたしがUber Eatsの配達に挑戦してみて(注:2018年頃)驚いたことは、外国人に配達すると、チップをくれる確率が異常に高いことでした。ピザを近所のマンションに配達して2,000円以上のチップをもらうこともありました。
その一方で日本人がチップをくれることはほとんどありません。もちろん日本人のなかにも高額のチップをくれる人もいるのですが、外国人と比較するとチップをくれる人はほとんどいないのです。
外国にはチップ文化があり、日本にはチップ文化がないのだからしょうがない、といってしまえばそれまでですが、そもそもなぜ外国にはチップ文化があるのでしょうか?
隣人愛
アドラーの思想を紹介するベストセラー&ロングセラーになっている「嫌われる勇気」には『隣人愛』という単語が登場するのですが、隣人愛とは何か?という点について詳しい説明が一切ありません。
『隣人愛』はキリスト教的な愛のことで、単に「隣人を愛すること」ではありません。聖書では次のように書かれています。
あなた達は敵を愛し、自分を憎む人に善を行い、自分を呪う人々を祝し、自分をざん言する人のために祈りなさい。
ルカ伝6・27-28
親や故郷の親しい者を愛する自然感情があるのは当たり前なのですが、それを退けて隣人を愛せといっているのです。
キリスト教の使徒だったパウロが、ローマ帝国にキリスト教を布教する上で、隣人愛の教義を強調したことは、意図的な選択だったといわれています。
教会に属する人が、教会に属さない人間たちに、どのような配慮を示すべきなのかを示すことで、異教徒・異民族が集う複雑な社会だったローマ帝国におけるキリスト教の浸透度を高めようとしたのです。
西欧社会が、隣人愛を語源とするチャリティ(慈善行動)の概念を、どこの国でもキリスト教徒の範囲を超えてもっているのは、まさしくパウロ的布教戦略の成果だと言えるでしょう。
差別の正当化を防ぐ
つまり隣人愛のポイントは、いわゆる隣人すなわち近しい人を愛する自然感情をエゴイズムとして否定し、自らに石つぶてを投げる者、自らをつき飛ばそうとする者を愛することにあるのです。
ひらたく言えば隣人愛とは「家族を捨てよ、故郷を捨てよ。」なのです。驚くべき教義です。そもそもなぜ近しい人を愛する自然感情が、「エゴイズム」なのでしょうか?
親を愛するとか、故郷の親しき者たちを愛するというのは、誰もがもつ自然感情です。もちろん共同体の内側ではそれでいいとしても、外側ではエゴイズムに転化する可能性があります。
たとえば、親を愛するとか故郷の親しき者たちを愛する自然感情が、同じ共同体に属さない人間を差別したり貶めたりするふるまいを抑止するどころか、「親しき者を守るため」という理屈で正当化しかねないのです。
役に立たない神様は必要ない
キリスト教の教義には、異なる共同体に所属する人たちと共生する原理が組み込まれているわけですが……キリスト教にしても仏教にしてもコーチングにしても民主主義にしても資本主義にしても……日本に入ってくると別物に変質します。
たとえば「祈れば自分のために何かしてくれる存在、それが神様。」というのが日本人の宗教観なのではないでしょうか?裏を返せば、祈っても自分のために何かをしてくれないなら「そんな神様は必要ない」と考えるのが一般的な日本人の宗教観なのではないでしょうか?
日本では神様すらお役立ちの尺度で判断される対象なのであって、だからこそ日本には「真理」がないと言えるのです。さて……そもそも真理とはなんでしょうか?
日本には真理がない
真理とは、それを受け入れることが自分のためになるとか、共同体的に期待されているからでもなく、単にそれが「真理」であるというだけで、納得できるものです。
わかりやすくいえば「わたしの両親がそういったから正しい」「先生がそういったから正しい」「世間では正しいかもしれないが、わたしたちの仲間内では正しくないんだ」というような理屈がなくても納得できるものが「真理」です。
要するに当事者たちの立場や、時代や環境といったものと無関係に直進するところに「真理」の特徴があるわけです。
こうしたトゥルース(真実)やフェアネス(公正)といった概念は、どの人にもどの共同体にも所属しない唯一神的な超越的視線(神のまなざし)によって判断される「正」や「義」があるという発想を前提にしています。
しかし日本における神様とは超越的な視線を持つ存在ではありません。あくまでも神様は、お役立ちの尺度で判断される対象であるため、「真理」の存在する前提条件が日本には存在しないのです。
もともと日本には共同体と無関係な「正」とか「義」といった概念がないことは古くから知られていて、それらは「からごころ」(漢)と呼ばれていました。要するに「正」とか「義」といった普遍思想は外来の世界観だ、という意味です。
■ 次はコチラ
■ 「世界」記事一覧