前回の講義では、アノミーは「病気ではない」ため、医者には治療できないことをお伝えしました。むしろ医者が治療しようとすれば、本当の問題は放置され、問題がさらに大きくなってしまう可能性も否定できません。
親が子どもを殺す
東京大学法学部卒業後当時の農林省に入省し、2001年に農林水産省の事務次官(官僚のトップ)にまで昇進した熊澤英昭さんは、2019年6月に無職の息子、英一郎(当時44歳)を刺殺しました。なぜエリート中のエリートが息子を殺害したのでしょうか?
事件のきっかけとなったのは、家の近所で開かれていた小学校の運動会の音について、無職の息子が「うるせーな、子供ぶっ殺すぞ」と発言したことでした。背景には息子から家族への激しい家庭内暴力があったようです。
母親は裁判で「英昭さん(注:夫)は英一郎(注:息子)のために一生懸命だった。刑を軽くしてください。」と訴えかけました。おそらく母の証言は嘘ではないのでしょう。
事実、父はチェコ大使に在任中(2005年~2008年)も国際電話などで息子と接点を持つようにしていたし、アニメ好きな息子に同人誌即売会への出店を勧め、売り子役を買って出たこともあったそうです。
しかし両親が息子を必死にフォローしていたことが本当だとすれば、なぜ息子は家族に暴力をふるったのでしょうか?
実は似たような事件は、過去にも発生しています。例えば昭和56年に発生した「堀越学園高校生殺人事件」が参考になるので、概要を確認しておきましょう。
堀越学園高校生殺人事件
「堀越学園高校生殺人事件」とは、教育器材販売会社の教育開発部次長であった渡部昭広さんが、一人息子の長男光男くん(当時15歳、堀越学園高校1年生)を殺した事件です。
渡部昭広は、息子のあまりにも凄絶な暴力に追い詰められた末に、息子を殺してしまいました。裁判の結果は、父親の執行猶予だったのですが、そもそもなぜ息子は、家族に激しい暴力をふるうようになったのでしょうか?
息子は父親の仕事の関係で転校が重なり、学校の級友からは仲間外れにされ、いじめられていたそうです。そしていじめられた息子の怒りの矛先は、母親に向かいました。
中学2年生の後半頃から、登校を渋るようになり、友子(母親)に対し、ティッシュペーパーの箱や灰皿を投げつけたり、殴り掛かったりするようになり、「このくらい友達からやられている。お母さんにやらなければ、誰にやるんだ。僕より弱い者で、女の人にやるんだ。」などと主張するようになります。
本来であれば、級友にいじめられたのだから、いじめを報復する相手は級友であるはずです。もし仮に級友への報復が成功していたら、級友の間で一目置かれるようなこともあったでしょう。
しかし光男くんは、級友との関係性を構築することができず、身近な弱きものに牙を向けたのです。
友達との交際を否定される
母親に暴力を振るうようになった光男くんも、中学3年生になると新しい友人をつくることに成功します。しかし両親からみれば、健全とは言えない友人でした。光男くんは友人と一緒に万引きをしたり、友人の自転車を勝手にもってきたりしたこともあったとされています。
光男くんの非行に気づいた両親は、そういう友達とは付き合わないように注意し、自転車を修理して持ち主に返すと、光男くんはこれに対して強く反発し、それをきっかけに友人との関係も気まずくなってしまったそうです。
さてここで疑問に思うことは、なぜ貧困家庭でもない光男くんが万引きをしたのかということです。万引きが悪いことだというのは本人だってわかっているし、そもそも「欲しいから」盗んだというわけでもないのです。
なぜ光男くんは、万引きをしたのでしょうか?
子どもが万引きする主要な動機は「共犯による連帯の形成」だといわれています。
かつてあった村落共同体における若者宿や、軍隊生活による連帯の可能性はいまや存在せず、日本の若者は連帯をつくるチャンスに恵まれていません。そのため連帯のないことによるスキマを非行で埋める子どもが一定数存在するのです。
若者宿とは、村落の未婚の若者が夜集まって、仕事をしたり話し合いをしたりして親睦をはかり、寝泊まりをする宿所のこと。
激しい暴力のはじまり
友人との連帯を否定された光男くんの暴力は、その頃から過激になっていきます。自転車にのっている母親を電車の踏切の上で突き倒して顔面にケガを負わせたり、注意されて機嫌が悪くなれば、昼夜を問わずふすまや障子を包丁で破壊し、祖母(ツネ)にまで暴力をふるうようになります。
仕事の鬼と言われていた父親も、何とか息子を改心させようと仕事も投げ打って四六時中努めるようになった結果、仕事をバリバリやるときの顔から子どものような顔に変わってしまったといわれています。
しかし父親の努力むなしく、光男くんの家庭内暴力が終わることはありませんでした。両親は必死になって国立小児病院、教育委員会、警察署などに相談しても問題は解決せず、精神科の医者に相談しても「異常はない」と匙を投げられてしまったのでした。
光男くんの暴力は治るどころか日に日に激しさを増し、カーテンはズタズタに切り裂かれ、昼間からガラスの割れる音や母親の悲鳴が近所に聞こえるまでに深刻な状況に陥りました。しかし残念なことに本人にも暴れている理由がわからないのです。
事実、光男くんが落ち着いているときに家族が光男くんに暴れる理由を質問すると、光男くんはこう答えたそうです。「俺にもわからないけど、イライラするんだ。」と。
英一郎さんと光男くんの共通点
英一郎さんと光男くんの共通点がわかるでしょうか?
それは「連帯がない」ということです。あなたが「家族との連帯があっただろう?」と疑問に思うかもしれませんが、ここでの重要なポイントは、「どんな連帯でもいいわけではない」ということです。
例えば一人の人間の連帯量を100としましょう。若者の場合、両親20、友人50、恋人20、その他の人びと10を仮に適正配分だったとしましょう。実は、適正な配分どおりに連帯が実現していればアノミーは生まれないのですが、そうでなければアノミーが生まれるのです。
そのことを念頭に英一郎さんと光男くんの連帯を考えてみれば、問題がどこにあるかわかるはずです。そう。両者ともに必要としていたのは友人や恋人との連帯なのであって、親との連帯ではなかったのです。
むしろ親が孤独な子どものためを思って親子の関わりを深める一方で、友人との連帯を断ち切ろうとすればするほど、子どものアノミーは進行し、手の付けられない状況になってしまうのです。
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