縁起とは「関係性が存在を生み出す」という考え方のことです。しかし「関係性」の解釈は小乗仏教と大乗仏教では大きく異なるので注意が必要です。
因縁とは?
「縁起」とは「因縁」ともいいます。いずれも仏教の根本論理なのですが、現代では一般的な言葉になっていますし、無自覚に使われています。
小乗仏教における縁起とは「因果」のことであり、因果とは「単純因果」のことです。

例えば「青酸カリを飲んだから死んだ」という時、「青酸カリを飲んだ」が『因』(原因、A)であり、「死んだ」が『果』(結果、B)となります。
ちなみに現代にも「因縁」(いんねん)という言葉がありますが、『因』とは直接の原因のことをいい、間接の原因を『縁』というところから来ています。
つまり一つの結果に対して、複数の原因が存在する関係(複数型因果関係)もあり得るわけです。

さきほどの青酸カリの事例において、青酸カリを飲んだ理由が「失恋」であれば、失恋したことは死んだ直接的な原因ではなくても間接的な原因になりますから、失恋は『縁』ということになります。
まとめると、以下のようになります。

失恋に苦しんでいただけでなく、家族の不仲や借金で苦しんでいたならば、以下のようになります。

以上のような関係が、すべての事柄においても成り立っていると考えるのが縁起(因果)の思想になります。だから仏教では「よい人は極楽へ行き、悪い人は地獄へ行く」と教えているのです。
キリスト教のように「よい人が地獄にいくこともある」とは教えていませんし、イスラム教のように「悪いことをしても、それを打ち消す良いことをすれば許される」とは教えていません。
仏教では偶然も確率も拒否しています。仏教の因果応報は、「本日の降水確率は●●%」と宣言する天気予報とは違うのです。また菩提樹の下で釈迦が悟ったとされる十二因縁も構造としては単純因果です。
十二の項目とそれらの関係によって、どうすれば生の苦しみから離れることができるのかという根拠を示す方法。
参考までに十二因縁の構造を以下に示しますが、まさに単純因果の構造そのものであることがわかるでしょう。
無明(むみょう) ⇒ 行(ぎょう) ⇒ 識(しき) ⇒ 名色(みょうしき) ⇒ 六入(ろくにゅう) ⇒ 触(しょく) ⇒ 受(じゅ) ⇒ 愛(あい) ⇒ 取(しゅ) ⇒ 有(う) ⇒ 生(しょう) ⇒ 老死(ろうし)
無明(無知)から行(形成力)が生じ、行から識(心作用)が生じ、識から名色(精神と肉体)が生じ、名色から六入(眼、耳、鼻、舌、身、意の六識)が生じ、六入から触(心が対象と接触すること)が生じ、触から受(感受作用)が生じ、受から愛(愛欲、妄執)が生じ、愛から取(執着)が生じ、取から有(生存)が生じ、有から生(生まれていること。生存)が生じ、生から老死(老いてゆき死ぬこと)が生ずる。
努力をすれば報われる?
小乗仏教における関係性の解釈は単純です。要するに「縁(原因)によって起こる」という理屈です。現代でも「縁(原因)によって起こる」という発想をベースにした言い回しは至る所で発見できます。
例えば「努力をすれば報われる」とか、「成功したいなら種をまこう!」というような言い回しは、まさに小乗仏教における関係性の解釈といえるでしょう。
また「風が吹けば桶屋が儲かる」ということわざも、単純因果の発想がベースにあるように思います。
風が吹くと土ぼこりがたって目に入り盲人が増える。盲人は三味線で生計を立てようとするから、三味線の胴を張る猫の皮の需要が増える。猫が減るとねずみが増え、ねずみが桶をかじるから桶屋がもうかって喜ぶということ。
しかしすでにご紹介したナーガールジュナは、「縁(原因)によって起こる」という解釈を広げていったのです。
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