前回の講義では、日本型教育の目的は戦前(軍事大国)と戦後(経済大国)で表面的には変化したものの、本質的には変わらず、いずれも「奴隷養成の実践教育」であることをお伝えしました。
そして奴隷実践教育は現代でも生き続けているどころか、ますます強化されているのです。
東京大学が最高学府?
3男1女全員を国内最難関の東京大学理科三類(医学部)に合格させた佐藤亮子さんの著書『東大理三に3男1女を合格させた母親が教える 東大に入るお金と時間の使い方』が話題です。
もしあなたが子どもを医者にしたいわけでもないのに、このような本に興味をもつなら、あなたは東大絶対主義者かもしれません。東大絶対主義とは「東京大学が最高学府であり、他の大学には東京大学に行けないものが行く」という意味です。
東京大学こそが最高学府であることは、(京都大学や九州大学を愛する地元の人たちや海外の大学を除けば)日本人ならばほとんど異論がないでしょう。
しかし実は、東大絶対主義は、以前紹介した昭和22年の教育改革までは存在しなかったのです。
東京大学の歴史
東京大学の前身である帝国大学が設立されたのは明治19年(1886年)であり、それ以前の『東京大学』はただ一つの最高学府というわけではなく、東京法学校、工部大学校、駒場農学校、東京山林学校などの同格の学校が、他にもありました。
当時の『東京大学』における中心課題は、技術者の育成であり、官僚の育成ではなかったのです。しかし伊藤博文の意図により、『東京大学』は帝国大学になり、性格をガラッと変えることになったのです。
伊藤博文の意図は、官吏(大日本帝国憲法下の役人)を養成する教育機関をつくることにありました。なぜならば近代国家をつくるためには、軍人・技術者・官僚が必要なのに、官僚を養成する専門の教育機関だけがなかったからです。
明治30年(1897年)に、帝国大学は東京帝国大学に名称を変更します。しかし「文官のための士官学校」という本質は変わりませんでした。
東京帝国大学以上のエリート校
戦前の軍国少年は、陸士・海兵に憧れたそうです。そのため陸士・海兵コースを歩むための「陸軍士官学校」や「海軍兵学校」は、東京帝国大学よりも狭き門でした。
海兵などは、1学年に120名ほどしか入学できなかったのに、東京帝国大学は1学年630名ほどでした。ですからエリート性でいえば、東京帝国大学よりも、陸軍士官学校や海軍兵学校の卒業生の方が上だったのです。
事実、海軍を卒業すれば最低でも大佐までは昇進できたそうです。大佐といえば、知事の一歩手前くらい、海軍では艦長に相当する身分でした。
また陸士を卒業すれば、採用人数の関係で海軍卒業生よりもエリート性は劣るものの、すぐに少尉にはなれたそうです。少尉とはいえば、田舎の駅長や郵便局長、小学校校長、警察署長よりも偉い身分でした。
その一方で東京帝国大学は、軍部以外の高等教育機関と比較した場合にも、最高ではあるが「特別」というわけではありませんでした。
東京・神戸の二高商(高等商業学校の略、現在の一橋大学と神戸大学)があり、現在のように東大に入れない学生が一橋にいき、京大に入れない学生が神戸大学にいくという傾向はなかったのです。
4つの高峰
戦前の高等教育には、軍部(陸軍士官学校、海軍兵学校)、東大法学部を筆頭とする大学、高等商業学校を筆頭とする有力高専、師範系諸学校という4つの高峰がありました。
戦前においても出身校による差別は現在以上に目立つものでしたが、大学受験といえば東京大学法学部のためのものであって、東大といえど法学部以外の学部には実質無試験で入れました。むしろ当時の受験生は、東大入試よりも一高(第一高等学校の略)の入試に苦労したそうです。
また将来の目的によって目指すべき進路が4つに分かれていたので、受験戦争も激しいものではありませんでした。
しかしすでに説明した昭和22年の学校制度改革によって4つの高峰という枠組みは、完全に解体されました。結果として、「山を登ろうとすればみんな東大という山を目指す」という風潮が生まれてしまったのです。
もちろんみんなが東大を目指す風潮があっても、大学が高等教育機関であれば、救いの道はあったでしょう。
各大学が「●●を勉強するならウチの大学院へ」と独自性を発揮することができれば、みんなが東大を目指すなんてことはなかったはずだからです。
しかし残念ながら、日本では「どこの大学院で何を勉強したか?」よりも「どこの大学を卒業したか?」が重視されるため、山を登ろうとすればみんな東大という山を目指すという風潮に歯止めが利かなかったのです。
東大内格差
昭和22年の学校制度改革によって4つの高峰という枠組みは完全に解体されます。
そして日本が高度経済成長に突入すると、学生がそれぞれの問題意識によって大学を選ぶということはなくなり、東大絶対主義が加速します。
そして興味深いことに、東京大学の中でも「東大絶対主義」が細分化されるかたちで入り込んでいくのです。具体的には、法学部に行けない人が経済学部にいき、経済学部にいけない学生が文学部にいくといった具合です。
そして東大法学部を頂点としてそれ以外の学部を直線的に並べるといった傾向は、昭和54年にはじまった共通一次の実施によって確固たるものになりました。
すべての大学が1位から1000位まで順位付けされ、同じ大学の学部間においてすら序列が生まれてしまった結果、受験競争はますます激しくなっていったのです。
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