すべては関係性であるという「空」の思想と、すべては仮説であるという「仮観」の思想をバランスよく維持した「中観」の思想を見事に表現した歌を紹介します。
唯識所変
仏教には多くの宗派がありますが、教義だけがあって信者もなければお墓もないという宗派があります。その宗派は法相宗(ほっそうしゅう)といいます。実は『豊饒の海』について紹介した講義のなかで登場した綾倉聡子の入山した月修寺(げっしゅうじ)も法相宗の寺という設定です。
「信者もなければお墓もない」というのは、欧米の常識からすればまさにあり得ない話ですが、空や仮観について理解したあなたなら、法相宗こそが釈迦の教えに忠実であることが理解できるはずです。
なぜならば釈迦は、弟子から「この世はあるのですか?」と問われて「無記」(ノーコメント)としていますし、「葬式には近寄るな」とコメントしているからです。
さて……法相宗の教義は、これまでも繰り返し解説した『唯識』です。唯識とは正しくは「唯識所変」(ゆいしきしょへん)といいます。
「唯識所変」とは直訳すると「ただ(唯)識によって変じ出された所のもの」であり、現代語訳すれば「わたしたちの識(心)こそがものごとを作り上げ、決定している」という意味になります。
ひらたく言えば、宇多田ヒカルさんの歌詞にあるように「夢も現実も目を閉じれば同じ」であり、すなわち「この世は幻」なのです。
つまり唯識の教えに基づいて考えれば、「天国も地獄も輪廻転生もあっていいが、あくまでも仮説であり、あると思えばあるし、ないと思えばないもの」と解釈をするのが自然であり、唯識の教えを教義とする法相宗に、信者もお墓もないのは不思議なことではないのです。
さて……今回の講義で法相宗について簡単に解説した理由は、法相宗の高僧である多川俊映師の著書「唯識十章」にある歌を紹介するためです。
唯識十章
唯識十章には、以下の歌が紹介されています。
手をうてば 鯉は餌と聞き 鳥は逃げ 女中は茶と聞く 猿沢池
唯識十章
手を叩く音の解釈が、鯉と鳥と人間によって異なることを見事に表現しています。耳から聞こえる音は一緒でも、意識の差でその理解の仕方は変化するのです。
そして「同じ状況にいるもの同士でも理解の仕方が変化する」ということは……同じ状況において複数の「役」があることを理解しなければいけません。
身長の高低
例えばあなたが自分のことを背が小さい(大きい)と思って悩んでいるとします。しかし背の高低というものは、相対的なものです。
「自分は背が小さい」と思っていても、あなたよりも背が小さい人からすればあなたは「背が高い人」であり、逆に「自分が背が高い」と思っていても、あなたより背が高い人からすればあなたは「背が小さい人」なのです。
もう少し例を挙げていきましょう。
意味のない存在
あなたが「自分は意味のない存在だ」と思いつめているとします。たしかに一部の人にとってあなたは意味のない存在かもしれませんが、別の人からすればあなたは「意味のある人間」かもしれないのです。
もしくはあなたが「あんな奴、死ねばいいのに」と思うような人間がこの世にいたとしても、別の誰かにとってその人が「絶対に生きていてほしい人」であることもあり得るのです。
口喧嘩
認識の違いによって他人と大喧嘩した経験はありますか?誰かを傷つける意図はなくても他人を傷つけることはあるし、逆に他人のたわいもない発言に深く傷つくということもあり得る話なのです。
以上、意識や立場が異なれば、複数の視点・役割が生まれるのは自然なことであり、それこそが「中観」の考え方なのです。
「当たり前の話でしょ?」と思った方も多いと思いますが、残念ながら現実の問題となるとわたしたちはそのことを忘れてしまいがちなのです。次回はその点を深掘りたいと思います。
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