■ はじめに
レポート「生きづらさの呪縛」では、自ら命を絶った研修医の高島晨伍(しんご)さんのセリフ「もう、明日起きたら、全てがなくなっていたらいいのに」を紹介しましたが、あなたは同じようなことを考えたことがありますか?
あらゆるイベントには終わりがあります。たとえば受験勉強には終わりがあります。祭りにも終わりがあります。しかし残念ながら・・・高島晨伍(しんご)さんを苦しめていたものは「終わらない」のです。
『終わりがある』と思えば、多少つらくても「もう少しだけ」と自分に言い聞かせて頑張ることもできるでしょう。しかし『終わりがない』となれば、どうでしょうか?
高島晨伍(しんご)も、自分を苦しめていたものが「終わらない」ものであることに、無意識に気づいていたのだと思います。だからこそ肉体的にも精神的にも追いつめられてしまい、「ちょっと落ち着いたら、うまいものでも食べにいこう!」ではなく、冒頭のセリフを吐き出すしかなかったのだと思います。
高島晨伍(しんご)さんを追いつめていたものはなんでしょうか?わたしたちを勝ち組・負け組論や自己責任論に縛るものはなんでしょうか?他人のことには無関心で、自分にとって少しでも得になるようなポジション競争(椅子取り合戦)に駆り立てるものは一体、なんなのでしょうか?
ズバリ・・・・
おそらくあなたは資本主義にポジティブな印象をもっていると思います。しかし資本主義は、労働者同時の連帯を奪ってしまう厄介な代物なのです。
なぜならば資本主義の世界では、労働力が「商品」になっているからです。なぜ労働力が「商品」になると、連帯が奪われるのか・・・といえば、誰もが「商品」である労働力をなるべく高く売ろうとするからです。
つまり資本家が労働者から搾取する・・・ということだけであれば、資本家と戦うために労働者同士が団結することもできるけれど、労働者同士は自らの労働力という商品を、少しでも高く売ろうとするライバル関係にあるため、必ずしも団結できるわけではないのです。
資本主義を研究したマルクスは、共産党宣言のなかで「万国の労働者よ、団結せよ!」という有名な言葉を残しましたが、資本主義の世界において、労働者同士が団結することは、当たり前のことではないのです。
わたしたちは幸せになるために働きます。しかし資本主義は、わたしたちの幸せではなく資本の最大化を目指すシステムです。ですからマルクスは、資本家も労働者も、資本の終わりなき自己増殖のための「入れ替え可能な道具」になるぞ!と警鐘を鳴らしていたのです。
そのためマルクスは市場の廃絶を訴えました。市場のメカニズムを通じた資源配分ではなく、行政官僚制を通じた資源配分を考え、それを社会主義と呼んだのです。しかし偉大なる社会学者マックス・ウェーバーは、マルクスの処方箋は絶望的だと断じました。なぜならば・・・
マルクスは、労働者や資本家を「入れ替え可能な道具」にすることを回避するために、行政官僚制の導入を主張したわけですが、ヴェーバーは「行政官僚制にしてもそれは同じ」と断じたのです。
日本には「お役所仕事」という言葉もあるとおり、行政官僚制は「手続き主義化」を追求します。ようするにマニュアルどおりの役割を演じれば誰もが同じ結果が得られるのが「お役所仕事」のあるべき姿です。
ヴェーバーは、誰もがマニュアル通りに同じ役割を演じることを「没人格化」と呼んだのですが、それ自体が悪いわけではありません。なぜならばたとえば役所に相談にいったら、担当者によって見解が異なる・・・なんてことになったら、あなただって「あり得ない」と思うのではないでしょうか。
ここまでの話を補足しながらまとめると・・・・資本主義は、資本の最大化を目指すために、人を道具にします。行政官僚制は、権力(予算と人事)の拡張を目指すために、没人格化を推進します。
ようするに資本主義にしても行政官僚制にしても、人を道具にしたり、マニュアル人間にするという意味では変わらないのです。
しかも厄介なことに・・・資本主義にしても行政官僚制にしても否定できない・・・つまり「終わらない」のです。
もう資本主義なんてイヤだ!と訴えたところで、資本主義を放棄することは「野垂れ死ぬ」可能性を高めます。だから多くの人が、会社が大嫌いでも会社を辞められないのです。
もう行政官僚制なんてイヤだ!と訴えたところで、行政官僚制を放棄することは「社会の混乱」を招きます。だから多くの人が、お役所仕事が大嫌いでもお役所仕事を受け入れざるを得ないのです。
さらに恐ろしいことに・・・マルクスは「みんなが資本主義に飲み込まれる」と予想し、ヴェーバーは「没人格化の波は社会全体に行きわたっていく」と予想したわけですが、マルクスやヴェーバーの予想はまさに的中しました。具体的には・・・
没人格化が社会全体に行きわたると、人は道具でありマニュアル人間として扱われるため、「入れ替え可能な存在」になります。そして「入れ替え可能な存在」になると、人は尊厳を失い、不安の渦に巻き込まれてしまうのです。
「あなたでなければダメ」(入れ替え『不可能』な存在)という扱いをされるのと、「あなたでなくてもいい」(入れ替え『可能』な存在)の扱いをされるのとでは、どちらが気分がいいですか?
もちろん「あなたでなければダメ」といわれたほうが、精神的な充足感を得られると思うのですが、現実の日本社会は「あなたでなくてもいい」という方向に傾いています。
たとえば現代日本では「マッチングアプリ」で結婚相手を探すことも珍しくなくなりましたが、マッチングアプリは能力つまりスペックで相手を探します。そのため(同じようなスペックの人間がいくらでも見つかるので)「あなたでなくてもいい」という扱いを受けることが当たり前になってしまったのです。
もちろんマッチングアプリを出会いのきっかけにして、「あなたでなくてもいい」という関係から「あなたでなければダメ」という関係に発展させることができればいいのですが、わたしは懐疑的です。
なぜならばマッチングアプリに出会いを依存しなければならないほど人的資本とコミュニケーション能力に乏しい人が、特定の個人と「あなたでなければダメ」という関係性を構築するために試行錯誤するイメージが湧かないからです。
実際のところ、関係性を構築する過程ではいろいろなことがあるわけですが、一緒に試練を乗り越えるために試行錯誤するよりも、別の相手をマッチングアプリで探すことのほうが「合理的」だと判断するのではないでしょうか?
さて・・・会社や友人関係で、そして家族の付き合いでさえも「あなたでなければダメ」という関係性を保証してくれないのですから、本当に大変な時代になりました。
どのような意味で「大変」なのかといえば、社会システム(資本主義や民主主義)に適応しようと頑張れば頑張るほど、自分自身が「入れ替え可能な存在」になってしまうため、尊厳を奪われて不安の渦から抜け出せなくなってしまうのです。
ヴェーバーは、権力(予算と人事)の拡張をひたすら追求する行政官僚を指導するためには、マトモな政治家が必要だと考えました。そしてマトモな政治家を選ぶためには、マトモな国民が必要不可欠だとも考えていました。
しかしヴェーバーの処方箋にも無理があったことは、日本の政治状況を見わたせば明らかでしょう。裏金(ワイロ)を正当化する自民党や、空気のように嘘を吐き続ける小池百合子を東京都知事に選んだのは、日本国民であり東京都民なのです。
ヴェーバー自身、自らの処方箋に疑問をもっていて、晩年は重い神経症に苦しみながらもニーチェの哲学に接近したといわれています。なぜニーチェなのでしょうか?ニーチェと言えば、「力への意志」という哲学概念が有名です。
「力への意志」とは、人間を動かす根源的な動機のことなのですが、没人格化により尊厳を奪わる社会の到来を予想したヴェーバー自身が、「力」を取り戻すことに興味をもっていたであろうことは注目に値します。
さて・・・あなたに力を与えるものはなんでしょうか?そのことを考えるヒントになるレポート『自分が嫌いの呪縛』を準備していますので、是非、参考にしてください!