2018年頃、Uber Eats(ウーバーイーツ)の配達をしている人は「自転車好き」がほとんどで、仕事でやっているというよりはUber Eatsの配達自体が「趣味」のようなものでした。サービス自体が珍しかったので、都内のオフィスにタピオカジュースを運ぶと、配達員が驚くぐらいとても喜んでくれました。
しかし時代は流れ……コロナ禍に突入すると一気に出前ブームが到来し、「Uber Eatsって何?」といわれる時代から「Uber Eatsの配達可能エリアが本当の都会である証拠」のような雰囲気を経て、Uber Eatsが全国展開するようになるといろいろなことがずいぶん変わりました。
配達しても喜んでくれる人はむしろ少数派になり、Uber Eats配達員の仕事はもっぱら「玄関前に食事を置く」(置き配)ことになりました。配達員が「注文ありがとうございました!」と声をかける機会もなければ、依頼者から「ありがとう!」をいわれる機会も激減したのです。
配達員と依頼者間のコミュニケーションが減ったのは「コロナ」が問題なのでしょうか?わたしはそうとは思いません。「コロナ」はコミュニケーション機会を減らす起爆剤になっただけで、コロナがあってもなくてもいずれ「置き配」ばかりの時代が到来していたと確信しています。なぜならば……
予告動画)ハウス・ジャック・ビルド
他人を信用できない社会
大きな事件の報じるニュースを観ても、「動機がわからない」ことが珍しくありません。そしてニュースを報じるテレビは「動機の解明が待たれます」などと主張します。なぜ『動機』にこだわるのでしょうか?なぜならば「動機がわからない」ことそれ自体が、人を不安にさせるからです。
例えば幼少期の壮絶な体験を理由にアダルトビデオに出演する……というありきたりなストーリーが通用していた時代、親は「自分の子どもは大丈夫か?」と不安になることはありませんでした。なぜならば「うちの子どもには食うには困らないほどの経験はさせていないから大丈夫」といった具合に、不安を処理することができたからです。
しかし時代は流れ……援助交際やパパ活に参加する未成年女性が、普通の家の子で、普通の学校に通い、近所や教室での評判も悪くないとなると、「うちの子は普通だから大丈夫」というような判断できないがゆえに、親は不安になるわけです。
映画「ハウス・ジャック・ビルド」に登場する殺人鬼も、「警察につかまるかもしれない」という状況を「わたしが悪い人間に見えますか?」の一言で乗り切ってしまうのです。わたしたちは「もしかしたら隣に住んでいるあの普通そうな人も、裏ではヤバイことをやっているのでは?」と不安になります。
不安は金になる
「うちの子(やわたしたち)は本当に大丈夫なのだろうか?」と不安になるような事件が発生すると、不安をあてこんで視聴率を獲得したがるマスコミは、わたしたちを不安にする情報を出してきます。
なぜならばマスコミは「不安の利害当事者」だからです。人々は不安になればなるほどマスコミを頼りにするので、マスコミは不安を解消するよりもむしろ不安を煽るように動機づけられるのです。
例えばコロナの社会へのインパクトは、重症者数・死亡者数・コロナ病床数の割合や経済活動への悪影響などによって判断するべきものという理解が進んできました。しかしコロナ禍が2年、3年も続いているのに、マスコミはいまだにコロナの新規感染者数を毎日のように報じているのです。(2022年4月1日時点)
コロナの新規感染者数だけではありません。あの普通そうな人がコロナにかかりました。あの普通そうな人が不倫をしています。あの普通そうな人が脱税しています。あの普通そうな人が殺人を犯しました。自称Uber Eats配達員が夜道を歩いている女性を襲いました……といった具合です。
そう。わたしたちの不安はマスコミによって形成されているという側面もあるわけですが、同時に何が「普通」かわからないという問題でもあるのです。なぜわたしたちは「普通」がわからなくなったのでしょうか?という点についてはまた別の機会に掘り下げる予定です。
■ 『社会』を学べる映画