散歩する侵略者 ~ 言葉の「枠」を壊す

言葉は人類史上、最もバグのない便利なコミュニケーションツールだと思いますが、同時に弊害もあります。「何か」を表現するための言葉が独り歩きして、言葉が「何か」を逆に規定してしまうのです。例えば……

愛とは?

本来の「愛」は、法外(既婚者)のものであり、貴族のものであり、成就しないものであり、戯れ(遊び)でした。

愛と結婚の歴史

しかし現代人にとっての『愛』は、法内のものであり、庶民のものであり、成就するものであり、本気(ガチ)のものに変化しています。

そもそも「愛」は法外のものであり、コントロールできないものです。しかしコントロールできなければ近代社会を維持できないので、本来の「愛」を忘れて生きるしかありません。

とはいえ昔の人たちは本来の「愛」を本当に忘れてしまったわけではありません。忘れた「ふり」をしているだけです。しかし「ふり」をしているだけでは我慢の限界がやってきます。だから「祭り」があったのです。

祭りの役割は、非日常を楽しむイベントであるというよりは、定住社会を営む自分たちが忘れた「ふり」をしているものを、本当に忘れてしまわないようにする機能も果たしていたのです。

ガチになったら終了

法外にある世界を知った上で法内を生きることと、法外にある世界を本当に忘れて法内を生きることとでは、同じ法内を生きることであっても大きな違いがあります。

法外にある世界を忘れてしまった輩は危険でもあります。なぜならば「言葉に釣られやすい」からです。法内の世界は言葉でできています。(法律、条例)だから言葉で表現された世界が「すべて」と勘違いし、目の前にいる人よりも見ず知らずの他人の言葉を信じて暴走しやすいのです。

もし宇宙人が人間を観察したらきっと不思議に思うでしょう。なぜならば人間が生み出した言葉というツールに、人間の存在自体が縛られてお互いに争ったりもしているからです。そして人間から「言葉」を奪ったら、どうなるか試したくなるでしょう。

人間から言葉を奪ったら……人間はもっと自由になれるでしょうか?

散歩する侵略者

愛しているか?

「愛している」と言葉にしてもらわないと不安になる……というような人は言葉に囚われすぎています。言葉では表現できない世界があることを忘れているのです。だから「愛している」という言葉に執着してしまうのです。

「愛している」と言葉ではなんとでもいえます。大事なことは言葉を超えた世界にあることを、映画「散歩する侵略者」を観て思い出すとよいでしょう。

■ 『社会を学べる映画

『社会』を学べる映画