【要約】幸せになる勇気

『嫌われる勇気』から3年の歳月が流れたある日、青年は哲人の書斎を再び訪問します。その目的は……

教育論

青年は大学図書館での仕事を辞めて、母校の中学校で教師の職に就きます。そこでアドラー心理学に基づく教育を実践するのですが、結果は大失敗。「アドラー心理学は机上の空論」というのが、教師としての実務経験を経た青年の結論です。

とにもかくにも青年は怒っているのです。哲人のアドラー思想に騙される自分のような被害者を生まないために、哲人の思想を木っ端みじんにしたい……その一心で青年は、哲人の書斎を再び訪問することを決意したのでした。

青年にとって興味があるのは『教育論』です。青年自身、アドラー心理学を頭から否定していたわけではありません。叱ってもいけない、褒めてもいけない、というアドラー心理学の教えを実践してはみたのです。しかし結果として、青年は「教育に失敗した」と感じているのです。

そこで青年は方向転換します。生徒を叱ることで無秩序を回復し、褒めることで承認欲求を与え、生徒のやる気を取り戻すことに成功したのです。その結果はじめて青年は、「教育に成功した」と感じることができたのです。

教育の目的

青年が訪問してきたときから、哲人は薄々気づいていたのです。青年が抱えている本当の問題は……教育の問題でもなければ、熱心に勉強しない生徒でもなければ、生徒を家庭で指導する親の問題でもない……ということに。

青年が抱えている問題は、要するに青年と生徒との対人関係がうまくいっていないことにあるのです。そして原因をさかのぼれば青年の側にも問題があるのだ……というのが哲人の分析です。

哲人は青年に対して「あなたはアドラー心理学をまったく理解していない!」とストレートに伝えることもできたでしょう。しかし哲人は、叱ることと褒めることの弊害について、青年にわかりやすく伝えることから本格的な議論をスタートさせます。

叱ることは支配することであり、褒めることはコントロールすることだ……というのが哲人の主張です。特別な存在でありたい生徒を、承認欲求に依存させて、自立する機会を奪っている青年の教育が、哲人の目には大問題に映ったのです。

ここで話を整理しておきましょう。もし叱ることや褒めることで、生徒を承認欲求に依存させることが「教育の目的」なのであれば、青年が「教育に成功した」と考えたとしても、あながち間違いとはいえないのです。青年は、「先生のおかげで頑張れた」と生徒に感謝してほしかったのです。

しかしもし、承認欲求に依存しない生徒の『自立』が『教育の目的』なのであれば、青年の教育は失敗することが確約されているという他ないのです。

なぜならば叱ることと褒めることが競争を生み、競争原理に支配された状況においては、全員に十分な承認欲求を供給できないからです。そのため哲人は、承認欲求に頼ることなく生徒に「自分のおかげで頑張れた」と感じてもらうことの重要性を、青年に強く訴えかけるのです。

教育の中身

叱ったり褒めることで、生徒を承認欲求に依存させることは、果たして本当に「教育の目的」にはなり得ないのでしょうか?

否。というのが哲人の主張です。

そもそも生徒の問題行動たとえば……称賛されたい、注目されたい、戦いたい、復讐したい、無能でありたいと願うことは、「特別な存在でありたい」という生徒のライフスタイルに原因があるのです。

生徒の「特別な存在でありたい」というライフスタイルを踏まえれば、全員の生徒を褒めて承認欲求を供給し、満足させることは不可能だということがわかるはずです。

なぜならば全員を褒めて「全員が特別な存在」と主張することは、「全員が平凡な存在」であると主張しているに等しいからです。生徒の「特別な存在でありたい」という欲求を満たすためには、褒められる生徒はほんの一部であるべきなのです。

しかし一部の生徒に承認欲求を与えようとすれば、結果として、競争は正当化されてしまうのです。つまり大多数の生徒は、褒められないもしくは叱られる運命にあるわけです。承認欲求に依存しない『自立』を達成するためにはどうすればよいのでしょうか?

称賛されたい、注目されたい、戦いたい、復讐したい、無能でありたいなどの生徒における問題行動の原因が「特別な存在でありたい」というものである以上、「特別な存在でありたい」というライフスタイルを変えることが教育の中身であり、教師である青年が挑戦するべきことなのです。

他人と比較して勝った負けたと「他人との違い」に一喜一憂するのではなく、「自分であること」に価値を感じるライフスタイルを育てることが、教師である青年に期待されている役割なのです。

教育の手法

哲人曰く、「自分であること」を教える第一歩は、教師による『尊敬』です。『尊敬』とは、特別な人に憧れることではなく、特別な条件がなかったとしても生徒を対等な人間としてありのまま受け入れることです。

具体的には、『他者の関心に関心を寄せること』が『尊敬』の態度というものです。ですから『尊敬』の態度を教師が生徒に対して実践し、生徒に『尊敬』の態度を伝染させることが重要になってくるわけです。

しかし青年はどうしても哲人の主張を受け入れることができません。なぜか?その理由はシンプルです。哲人曰く……青年自身は「特別な存在でありたい」と願うライフスタイルの持ち主であり、中学校教師の仕事を「特別な存在でありたい」という欲求を満たすための手段にしている……というのが哲人の分析です。

つまり青年は中学校教師という役割を「仕事」だと認識しているのです。ちなみに仕事とは「自分のため」に活動することで、間接的に他者貢献を実現する営みのことです。

要するに青年は「特別な存在でありたい」という「自分のため」の目的を達成するために、生徒に承認欲求を与えているのです。具体的には、教室を競争原理が支配する環境に整えることで、叱ることや褒めることで生徒をコントロールする手法の実効性を高め、生徒を自分に依存させようとしているのです。

ですから生徒が競争原理から抜け出すことは、青年にとっては望ましいことではないのです。なぜならば教室から競争原理を取り除いてしまうと、青年の生徒に対する支配・コントロールは弱まり、青年の「特別な存在でありたい」という欲望が満たされない可能性が高まってしまうからです。

その一方で哲人は、中学校教師という役割を「交友」だと認識しているのです。交友とは「あなたのため」に行動することで、直接的に他者貢献を実現することです。生徒を『尊敬』し、無条件に信用(つまり信頼)し、交友を深めていくことがアドラー心理学における教育の実践なのだ……というのが哲人の主張です。

真実の瞬間

あなたは自分のために教師をやっている」という哲人の厳しい指摘に、青年はうろたえます。しかし青年の行動を振り返れば、哲人の主張には信ぴょう性があります。そもそもなぜ青年は、哲人に対して怒っているのでしょうか?なぜ青年は、哲人が語るアドラーの思想を木っ端みじんにしたいとまで主張するのでしょうか?

青年の哲人に対する態度はまさに「勝つか負けるか」なのです。つまり青年は哲人と「競争」をしているのです。その一方で哲人の態度は、3年前に初めて青年と出会ったときから「協力」の態度なのです。青年は哲人を「敵」と認識している一方で、哲人は青年を「友」と認識しているのです。

残酷な真実。それは……青年はアドラー心理学を理解していなかったのです。アドラー心理学をまったく理解していなかったにも関わらず、アドラー心理学を実践していると勘違いしていたのです。

アドラー思想では、原因論ではなく目的論を重視します。「これまで」ではなく「これから」を重視するのです。それにも関わらず、青年は「これまで」の哲人との議論を蒸し返すことにばかり熱心です。

つまり青年のライフスタイルは、競争・原因論・自己中心性で一貫しているのです。しかしアドラー心理学の実践には、協力・目的論・他者への関心が欠かせないのです。

どうすれば青年は、競争・原因論・自己中心性のライフスタイルから脱却できるのでしょうか?哲人のアドバイスはとてもシンプルです。

他者を愛すること

アドラー心理学における実践には、愛が不可欠です。愛したら傷つくかもしれない。信頼したら裏切られるかもしれない。現実問題として、傷ついたり裏切られれば「アドラー心理学は机上の空論」だと叫びたくもなるでしょう。

しかしわたしたちにできることは「他者を愛し続けること」なのです。「すべての悩みは対人関係の悩みである」一方で、「すべての喜びもまた、対人関係の喜びである」ことを見過ごしてはいけません。

もちろん傷つくこともあれば裏切られることもあるでしょう。しかし未来がわからないからこそ、わたしたちは運命の主人になれるのです。

青年は、未来の不確実性に勇気をもって飛び込むことができるでしょうか?

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