共同体感覚への理解を深めるためには、『社会』と『世界』それぞれの概念を理解することが重要になります。
今回の内容は『アドラーの基礎モデル』の⑥を理解する上で役立つはずです。
- わたしたち個人は社会のなかで生きている。わたしたち個人は、真空の中でぷかぷかと浮いているような状態で生きているわけではない。
- である以上、人生の課題に向き合わなければならない。人生の課題とは仕事・交友・愛の三つである。
- 人生の課題への向き合い方は、わたしたち一人一人のライフスタイルで決まる。
- 人は無力な存在としてこの世に生を受ける。そして無力な状態から脱したいと願う、「優越性の追求」という普遍的な欲求をもっている。
- 優越性を過度に追求しようとするあまり、わたしたちは優越コンプレックスや劣等コンプレックスなどの「不健全なライフスタイル」を身につけてしまうことがある。
- 共同体感覚を『導きの星』にして、人生の課題と向き合うべし!
- 人生の課題に向き合うことをためらう人がいるが、そんな時は以下のことを思い出そう。
- 何をするにもリスクをゼロにすることはできない。
- 社会は人間がつくったものであり、変えることができる。
- 過去の経験が未来を決めるのではなく、未来への展望が現在を決める。
- 過去の経験を言い訳にして行動しないときは見かけの因果律を疑うべし。
- 他人から与えられることを待つのではなく、自分から始める。
- 特別な存在を目指す必要はない。いまの自分ができることから始める。
社会への関心
「嫌われる勇気」では、哲人と青年の以下のようなやりとりがあります。

共同体感覚のことを英語では「social interest」といいます。つまり、「社会への関心」ですね。そこで質問ですが、社会学が語るところの社会の最小単位は何だかご存知ですか?

社会の最小単位?さあ、家族でしょうか。

いえ、「わたしとあなた」です。ふたりの人間がいたら、そこに社会が生まれ、共同体が生まれる。アドラーの語る共同体を理解するには、まずは「わたしとあなた」を起点にするといいでしょう。
共同体感覚が「社会への関心」なのであれば、その社会の最大値はどこにあるのでしょうか?最小値が「わたしとあなた」なのであれば、最大値は「世界中の人々」なのでしょうか?
「すべての悩みは対人関係の悩みである」というのがアドラーの主張ですが、アドラーの思想は対人関係に限ったものではありません。そのことを理解することが、アドラー心理学への理解を深める鍵になるはずです。
社会を超える
アドラーは共同体について、以下のように主張しています。
子どもの心の発達は、子どもをめぐる対人関係によって、ますます浸透される。生得的な共同体感覚の最初の兆候が現れ、器官に制約された愛情追求が盛んになり、子どもは大人が近くにいることを求めるまでになる。子どもの愛情追求は、フロイトがいうように、自分自身にではなく、他の人に向けられることが常に見られる。これは子どもによって程度も現れ方も異なる。二歳以上の子どもでは、この違いは、言葉の表現にも確かめることができる。この頃までにしっかりと根づいた、〔共同体との〕一体感、共同体感覚は、精神がひどく病んだ時にだけ失われる。それを人は制限されたり、あるいは、拡大されて、少し色合いを変え、形を少しばかり変えることはあっても、生涯にわたって持続け、良好な状態の時には、家族だけではなく、一族、国家、全人類にまで拡大する。さらには、この限界を超え、動物、植物や無生物まで、ついには、宇宙にまで広がる。われわれは、人間を理解するために重要な助けを手に入れた。人間を共同体的存在として見なければならないということである。
【引用:人間知の心理学】
つまりアドラーは……共同体感覚は、ひどく病んだ時には失われることもあるが、(精神が)良好な状態の時には、家族だけでなく、一族、国家、全人類、さらには動物、植物、無生物、ついには宇宙にまで広がる……と、主張しているのです。
ここが面白いポイントです。アドラーは自らの学問を「個人心理学」と名付けました。個人心理学というネーミングからは、「ひとりの人間に関する学問」という印象を受けます。しかしアドラーは、心理学という枠を超えて社会学の領域にまで足を踏み入れているだけでなく、社会学を超えた領域までをも念頭に入れているのです。
社会学とは何でしょうか?社会とはひらたくいえば「コミュニケーションできる領域」のことです。もっと平たく言えば「話せばわかると信じられる人間同士の領域」のことです。そして社会学は、「近代社会がどうやって回るのか?」を研究する学問です。
ここでアドラーの共同感覚についてあらためて確認してみると、興味深い事実に気づくはずです。アドラーのいう共同体は、全人類を超えて、宇宙にまで広がっています。つまりアドラーは、「社会」を超える領域を念頭に入れているのです。社会を超える領域とは、一体どのようなものなのでしょうか?
社会を超えた領域
社会を超えた領域とは、「コミュニケーションできる領域」の外にある領域のことです。つまり「コミュニケーションできない領域」のことです。ひらたくいえば「人知を超えた領域」のことです。
「人知を超えた領域」とは一体、どのようなものなのでしょうか?もっとも一般的なものは宗教でしょう。宗教では「人知を超えた領域」を取り扱います。たとえばキリスト教において、聖書のメインテーマは『奇跡』です。
『奇跡』とはたとえば……処女が懐妊したとか、死んだラザロが生きかえったとか、声をかけただけでたちまち病気が治ったとか、ホバークラフトでもないのに水の上を歩けたとか……そういう類のものです。
さて……社会(人知)を超えた領域のことを「世界」といいます。「世界」とは「人知を超えた領域」なのだから、そもそも「世界」について考える必要はないのではないか?と考えるかもしれません。しかしわたしたちの日常は「人知を超えた領域」を前提にして成り立っているので、無視すること自体がナンセンスなのです。
たとえば「そもそもなぜあなたが生まれたのか?」という疑問も「人知を超えた領域」に足を踏み入れていますし、「ある日突然、あなたが死ぬ可能性」について考えることも「人知を超えた領域」に足を踏み入れています。
わたしたちが現代社会を当たり前に生きていることだって『奇跡』であり、当たり前に死ぬこと自体も『奇跡』なのです。日本でも「人知を超えた領域」について無自覚だった人が、ある日突然「人知を超えた領域」に直面し、カルト宗教にハマってしまう……なんてことも珍しいことではありません。
社会のなかで不全感を抱えている人は、カルト宗教だけでなく、お金儲けや、ギャンブルや違法薬物に依存したりします。どうすれば不全感をやわらげることができるのでしょうか?
アドラー心理学の『共同体感覚』は、「人知を超えた領域」つまり「世界」について念頭に入れています。だからこそ、カルト宗教などから、心や財産を守る防波堤になり得るポテンシャルを秘めているのです。
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