到達できない理想

前回は「導きの星はどこにあるのか?」というテーマについて語るために、予定説や隣人愛について簡単に説明しました。その上で、共同体感覚を導きの星として行動することの具体的なイメージについても説明しました。あなたにとっての『導きの星』は、どこにあるのでしょうか?

今回の内容は『目的のモデル』の④を理解する上で役立つはずです。

提案)目的のモデル
  • 性格を変えることだけが幸せの道ではない。共同体感覚を目指す選択肢もある。
  • 導きの星を目指せば、輝きにあふれた日常に開かれる。
  • ライフスタイルを進化させる鍵は「大きな煩悩」「結果がわからない」「ありのまま」。
  • 導きの星は「到達できない理想」にある。

目標と理想

共同体が到達できない理想であるのと同様、共同体感覚も理想であることを止めることはないのである。たとえ大多数の人が認める立場であっても、なお人間は誤る可能性がある。しかし、そのようであっても、共同体感覚は、人間にとって「導きの星」なのである。理想は人がそこへと向かって行く目標である。

【引用:性格の心理学】

共同体は到達できない理想です。ですから共同体感覚つまり導きの星も「到達できない」というところにポイントがあるのです。これは一般的な常識に反するかもしれません。なぜならば普通、目標は「実現できること」だからです。むしろ「実現できないこと」を目標にすることには意味がありません。

なぜならば「実現できない」ということは「実現する方法がわからない」ということであり、「実現する方法がわからない」ということは「計画が立てられない」ということであり、「計画が立てられない」ということは「何をすればよいかわからない」ということになってしまうからです。

ですから目標と理想(導きの星)を混同してはいけないのです。さきほど引用した文章には「理想は人がそこへと向かっていく目標である」とあります。しかし厳密には「理想」と「目標」は似て非なるものなので、ハッキリ区別する必要があるのです。

重要なことなのでまとめておくと……目標は「実現した世界がどんなものかわかること」「実現する方法がわかること」です。その一方で理想(導きの星)は「実現した世界がどんなものかわからないこと」「実現する方法がわからないこと」です。

理想と目標
  • 理想 ⇒ 実現する方法がわからないもの
  • 目標 ⇒ 実現する方法がわかるもの

たとえば前回紹介した安藤百福の場合、「二度と飢餓に苦しまない世界」は理想です。そして「インスタントラーメンの発売」は目的です。

また日本アドラー心理学学会の初代会長を務めた野田俊作先生は、未来の社会モデルは「みんなが仲良く一緒に暮らしていけるもの」だと主張する一方で、どうすればよいかわからなくて混乱していることを告白しています。以下、『グループと瞑想』における野田俊作先生と、対話する相手である片山交右氏とのやりとりです。

野田俊作
野田俊作

私のグループは、コミューン・タイプのグループなんです。そこではみんなが仲よく一緒に暮らしていける。それは、未来の社会のモデルなんだと思っています。

片山交右
片山交右

話がそれるかもしれないけれど、コミューン運動についてどう考えているんですか。

野田俊作
野田俊作

私は一種のコミューン主義者なんです。ただ、今までのコミューン運動には批判的なんです。

野田俊作
野田俊作

まず経済学的な問題がある。コミューンが今の資本主義社会に経済的に寄生していたのでは、それは本当の代替社会とは言えない。コミューンに暮らしながら、外の社会に働きに出る、というタイプのコミューンは、コミューンではなくて、ただの下宿屋だ。

野田俊作
野田俊作

また、コミューン自体がビジネスを持っていて、一般社会と取り引きしているのは、ややましだけれど、なお社会の寄生虫ではあると思う。では、完全な自給自足コミューンはどうかというと、アーミッシュなんかがそうなんですが、数百年前の暮らし方でしょう。あれも感心しない。では、どうすればいいのかというと、わからないんですよ。私自身混乱している。

未来の社会モデルは「みんなが仲良く一緒に暮らしていけるもの」だとする一方で、「どうすればいいのかというと、わからないんですよ」と主張する野田俊作先生は、まさしくアドレリアン(アドラーを実践する人)なのです。なぜならば……

不可能な現実

そもそもなぜ理想(導きの星)は「到達できないこと」である必要性があるのでしょうか?

最大の理由は、「到達できるもののために、人は必死になれない」という点を挙げることができます。たとえば「勉強すれば志望校に合格できる」ことがわかっている場合、必死に勉強することはないでしょう。「まぁ、明日から頑張ればいいや」と勉強を先延ばしにするのではないでしょうか。そして必死に勉強することなく志望校に不合格となれば「まぁ、今まで本気で頑張らなかったからなぁ」と自分を納得させるでしょう。もしかしたら「志望校に合格することにそれほど重要な意味はない」と自分を納得させるかもしれません。

いずれにせよ「到達できそうなこと」を目指してしまうと、過去・未来・意味などに意識の焦点が当たってしまい、いまこの瞬間に意識を集中させることが出来ない可能性が高いのです。

「到達できないこと」のうち、「必死になれる」ことが「あなた」にとっての理想です。

もしかしたらあなたは「到達できない理想に向けて行動することに、どれだけの意味があるのだろう?」と疑問に思うかもしれません。しかし歴史を振り返れば、その当時の人にとっては想像できないことばかりが、現実になってきたことがわかるはずです。

たとえば江戸幕府が終わり、明治日本が開国したとき、あと四十年くらいで日本がロシアに大勝して世界の軍事大国になるなんて予想した人はいなかったでしょう。

また昭和十六年、日本が連合国に宣戦したとき、わずか四年後に、威風堂々たる大日本帝国が見るも無残な敗戦国になるなんて、実感できた人は、果たして何人いたでしょうか。

さらに第二次世界大戦に負けて敗戦の焼跡に立ったとき、あと四十年足らずで、日本がアメリカと肩を並べ経済大国になるなんて予想した人は誰もいなかったでしょう。

「到達できない」理想を恐れる必要性は、まったくないのです。なぜならば「到達できない」というのはあくまでも現在における判断なのであって、未来においては当たり前のことかもしれないからです。

以上、「到達できない」という点に焦点を当てて説明してきましたが、「必死になれる」とは具体的にどのようなイメージなのでしょうか?

行動的禁欲とは

予定説を信じた人が「神に救われる予定の人は、そのことを証明するように振る舞うであろう」というカルヴァンの遺言を信じて行動したことは、すでに紹介したとおりです。

実はこのような態度を『行動的禁欲』といいます。そして『行動的禁欲』こそが今回紹介したい「必死になる」イメージにぴったりなのです。行動的禁欲とはなんでしょうか?誤解を招く表現なので、少し補足しておきましょう。

日本語で「禁欲」と言うと茶断ち、酒断ち、断食など何かを「しない」ほうに重きが置かれています。しかし行動的禁欲の重点は行動「する」ことにあります。そしてその重点の置き方も極端です。行動的禁欲とは「唯一つの目的達成のために全身全霊を集中的に注ぎ込むこと」なのです。

たとえばキリスト教を布教したパウロは、自分の布教行動を行動的禁欲と呼び、オリンピックのマラソン選手に例えました。人間はすべて生まれながらの罪人である。福音を聞かなければ最後の審判で救済されることはない。しかも最後の審判の日は近い。一秒でも早く一人でも多くの人に福音を伝えなければならない。こう思ったパウロは、死にもの狂いを遙かに上回るエネルギーで人々に福音を伝えていったのです。

また予定説を紹介したカルヴァンも、行動的禁欲で有名でした。カルヴァンはプロテスタント信者にとても厳しかったことで有名です。カルヴァンの悪口をいえば、まず間違いなく処刑されていたでしょう。しかしカルヴァンは自分にも厳しかったのです。作家のシュテファン・ツヴァイクによれば……

彼は世間にたいして苛酷であったかもしれないが、自分自身にたいしても苛酷であった。生涯を通じて彼は自分の身体をきびしく鍛錬し、精神をまもるために肉体にはほんのわずかと休息しかあたえなかった。夜は三時間、あるいは多くても四時間しか眠らず、一日にただの一回だけ粗末な食事をとったが、それもかたわらに本をひらいたまま大いそぎで食べるのであった。散歩したことも遊戯をしたこともなく、歓楽にふけったことも休養をとったこともなかった。ましてや、ほんとうの快楽にふけったことなど絶対になかった。要するにカルヴァンは、精神への熱狂的な献身のあまり、たえず働き、思索し、著作をし、労働し、闘争したのであって、ただの一時間でも自分自身のために生活したことはなかった。

【引用:権力と戦う良心

導きの星はどこにある?

導きの星はどこにあるのか?と問われたら、あなたはどう答えるでしょうか?もしあなたの答えが『到達できないこと』であるならば、わたしのこれまでの解説が理解された証拠だと思うので、とても嬉しく思います。

同時に『到達できないこと』は、人それぞれ異なるという点も重要なポイントです。プロテスタントにとっての『到達できないこと』は『神の国に入ること』でしたが、安藤百福にとっての『到達できないこと』は『飢餓のない世界の実現』だったのです。

またアドラーにとっての『到達できないこと』は『共同体感覚の実践』ですが、野田俊作先生にとっての『到達できないこと』は『みんなが仲よく一緒に暮らしていける世界の実現』でした。

あなたにとっての『到達できないこと』はどこにあるでしょうか?あなたにとっての『到達できないこと』がどこにあるのか?ということは、すぐにはわからないかもしれません。しかしヒントがないわけではありません。野田俊作先生曰く・・・(以下、『性格は変えられる』から引用)

片山交右
片山交右

どうしたら、無意識になっている自分の人生目標を知ることができるんでしょうか。何かいい方法がありますか。たとえば夢を分析するとか。

野田俊作
野田俊作

自分で自分の人生目標を知ることは、まず不可能だと言っていい。残念でした。

片山交右
片山交右

なぜできないんですか。それを知ると、生き方に自信が持てるようになると思うんですが……………。

野田俊作
野田俊作

困ったな。そうね、たとえば、「子どものころ、大きくなったら何になろうと思っていたか」を思いだすと、その答えの中に人生目標が暗示されている。

片山交右
片山交右

それはたとえばどういうことですか。

野田俊作
野田俊作

私は、子どものころ、ロケット技師になろうと思っていました。宇宙飛行士ではなくて、宇宙飛行士を乗せるロケットをつくって飛ばす人ね。これは今の生き方と深く関係がある。今も、人々を不幸から幸福に向かって舞いあがらせる仕事をしている。

片山交右
片山交右

シンボリックな歪曲を受けているかもしれないけれど、原型はある、ということですね。

わたしたちは『到達できないこと』を目指すことではじめて行動的禁欲を発揮することができます。そして行動的禁欲を発揮すれば、ライフスタイルが成長していることにすぐに気づくでしょう。もしあなたが気づかなくても、周囲の人間はきっとあなたの進化に気づくはずです。そしてその頃には「必死になること」「今ここに生きる」という感覚を、あなた自身、実感していることでしょう。

最後に一言。「必死になること」「今ここに生きる」とは、どのようなイメージなのでしょうか?批評の神様、読書の達人と名高い、小林秀雄の言葉にヒントがあるように思います。

自分を忘れるには、他人になった気にさえすればよい、その為には、自ら行動せず、外からの刺激に屈従するのが一番効果がある、という考え方、というよりも一種の心理傾向は、どう考えても健全な傾向とは言い兼ねるからだ。(中略)

自ら行動する事によって、我を忘れる、言い代えれば、自分になり切ることによって我を忘れる、という正常な生き方から、現代人はいよいよ遠ざかって行く。

【引用:読書について

小林秀雄のいう「自分になり切ることによって我を忘れる生き方」は、アドラー心理学における「共同体感覚を導きの星にすることで、行動的禁欲を発揮する生き方」つまり「今ここを生きる」ことと、同じことだと思うのです。

【完】

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