豚がいた教室 ~ ピティエとは何か?

「近代教育思想の祖」といわれている18世紀の哲学者ジャン=ジャック・ルソー(1712~1778)は、「ピティエ(憐れみの情)がなければ、民主制はまともに作動しない」と考えていました。

ピティエ(憐れみの情)とは「自己の同胞が苦しんでいるのを目にすることに、生まれつきの嫌悪を感じる」気持ちのことです。なぜピティエ(憐れみの情)が民主制をまともに作動させる鍵になるのでしょうか?

困っている人を想像できるか?

政治家が「日本人のために」と連呼したところで、その政治家の交友関係は限られています。政治家は、日本人のほとんどの名前も顔も知らないでしょう。同様に、あなたも国会議員全員の顔と名前を知っているわけではないでしょう。

困っている人の顔が浮かび、どのようなことで困っているか想像もできないような状態で、政治家は「困っている人がいるからなんとかしよう」と本気で考えることができるのでしょうか?

また政治家の名前も顔も一致しないのに、国民は「政治家がなんとかしてくれる」と本気で信じることができるでしょうか?

哲学者ジャン=ジャック・ルソーは「民主制がコントロールする範囲が大規模になればなるほど、ピティエ(憐れみの情)が薄れる」ことを危惧していました。そのため「自己の同胞が苦しんでいる」ことを、リアルに想像できる範囲での直接民主制を提唱しました。

とはいえ、民主制がまともに作動するためにはピティエ(憐れみの情)が鍵になる……などといわれても「ピティエ(憐れみの情)がよくわからない」のではないでしょうか?

もしピティエ(憐れみの情)を実感したければ、「豚がいた教室」という作品を鑑賞してください。

予告動画)豚がいた教室

これ以降の内容は、ネタバレも含みますのでご注意ください。

豚を食べる?食べない?

豚がいた教室という映画があります。妻夫木聡演じる新任の小学校教師が、豚を抱えて小学校6年生の生徒たちに向かってこう提案します。

この豚を先生は、みんなで育てて、最後には食べようと思います!

ピーちゃんと名付けられたその豚は、「食べられる」という前提で飼われるわけですが、「かわいそう」と反論する生徒たちが出てきます。

先生は「生徒みんなで話し合って、食べるか?食べないか?結論を出してくれ」と指導しますが、卒業する3日前になっても、26人いる生徒の結論は13対13で割れてしまって答えが出せないから、さぁ大変!!!

26人の生徒たちは「先生もクラスの1人だから、先生も一票を入れてほしい」と決断を委ねるのですが、先生の下した結論に対して、生徒の誰も反論しないのがこの映画の感動的なところです。

なぜ先生の下した結論に対して、生徒の誰もが反論しないのでしょうか?

同じ地平を生きている

子どもが先生の決断に誰一人として異論を唱えないのは、妻夫木聡演じる新任の小学校教師が「偉いから」でも「尊敬されているから」でも「先生だから」でもありません。先生に対して「あの先生は、自分たちと同じ地平を生きている」という実感があるからです。

だから先生と反対の意見を主張した13人の生徒も、先生の決断に心の底から納得しているわけでもないのに「あの先生が言っているのだからしょうがない」と、先生の決断を黙って受け入れることができるのです。

信頼関係は「先生と生徒」の間だけに存在したわけではありません。親から子どもへの信頼、校長先生から新任の小学校教師への信頼……という『信頼の輪』というべきものがあったからこそ、決断することを誰かに丸投げしたり、先送りすることを拒否して「自分たちの決断」を下すことができたのです。

あなたは政治家を信用しているか?

ニュージーランドの86%の国民は「政府を信じている」らしいですが、日本で政府を信じている国民はどれほどいるでしょうか?

たとえばモリカケ問題、桜を見る会などで噴出したあらゆる疑惑はいまだに解決されていません。もしかしたら真相が明らかになる日は一生こないのかもしれません。

なぜ日本人は政府を信じているようで信じていないのか?政治家を信頼できない理由の一つが「ピティエの欠如」であることは、コロナ禍の日本を経験した人なら誰もが実感したのではないでしょうか?

たとえばコロナ禍において政治家が「不要不急の外出は控えてください」と発言したとき、そこに「ピティエ」を感じたでしょうか?

ドイツのメルケル首相と、日本の菅総理のメッセージを比較すれば、説明するまでもないはずです。

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