サーミの血 ~ 社会化 ≒ 一般ピープル化

大規模定住社会を当たり前に受け入れているわたしたちには、差別=「絶対悪」という「思い込み」があります。しかし本当に「差別」されることはいけないことなのでしょうか?

その問いに答えるために、生まれた時から差別され続けた少女の生涯を描いた映画を紹介します。

予告動画)サーミの血

これ以降の内容は、ネタバレも含みますのでご注意ください。

スウェーデン人とラップ人

ラップ人(サーミ)として生まれた少女エレ・マリャは、「もう非定住民として差別されながら生きるのは嫌だ。わたしは定住社会で生きる」と決意します。その結果どうなるでしょうか?

日本では就職して働くことを「社会人になる」と表現しますが、おそらくあなたもご存知のとおり社会人として働き続けることは本当に大変です。学生時代には誰も教えてくれないたくさんのことを覚えなくてはいけませんし、年収がそれなりに高くなると「毎日を乗り越えるが精いっぱい」という日々が年中続きます。

同様に、エレ・マリャがラップ人としてではなくスウェーデン人として生きるためには、さまざまな障害を乗り越える必要があります。エレ・マリャは「集団生活に必要不可欠な協調性」や定住民の財産を維持・保全する上で必要不可欠な「所有」などの概念についてまったくといっていいほど無知なので、社会に適応するのにとても苦労するのです。

社会人になった人でなくてもアルバイトをしたことのある人ならわかるはずです。社会人になるということは、社会の歯車になるということなのです。学校では「前ならえ」的な教育が施され、わたしたちは『替えのきく人材』になるべく邁進し、自分の子どもたちにもそのようなスタイルを強いるのです。

そういう循環がちゃんと回っているからこそ、替えのきく人材を採用することができ、「自動販売機のボタンを押せばジュースが出てくる」とか「配達を依頼したら午前中に荷物が届く」というような計算可能性が担保されるのです。

そして計算可能性が担保されるからこそ、計画(ビジネス)が成り立ち、わたしたちの社会は回っているのです。

社会はそういうもの

そう。近代社会はそもそもそういうものなのです。「そういうもの」が意味することは、『近代社会は近代社会が成り立つために、わたしたちに一般ピープル化することを要請する』という意味です。そして生まれた時から一般ピープルに囲まれて育った現代人は、一般ピープルになることが正義と信じて疑いもしないのです。

とはいえ差別が身近にあった時代の定住民たちは「一般ピープル=絶対善」などと素朴に信じているわけではありませんでした。

そのため日常では差別していた非定住民を祭りなどに招き、自分たち定住民を一般ピープルであり続けることのストレスから解放してくれる【聖なる存在】として非定住民を認識していたのです。

しかし時は流れ……現在では近代社会初期の記憶は忘れ去られています。高度近代社会に生きるわたしたちは、一般ピープルになることが正義であると信じるようになります。そして反射的に「差別=絶対悪」(一般ピープル=絶対善)と認識するようになるのです。

しかし本当に……一般ピープルとして社会の歯車として生きることが幸せなのでしょうか?

社会の構成員のほとんどが「一般ピープル化になることが正義」であると疑わない時代が今の日本です。一般ピープルとしてルールを破る人のことを社会から排除し「なかったこと」にするのです。(キャンセルカルチャー)

例えば「マスクをつけないやつはテロリスト」かのごとく扱われます。電車のなかでマスクをつけていない人が警察に通報されて任意同行を求められる……なんて騒動が実際に大阪でありました。

また「浮気をするやつはクズ」という認識が一般的です。浮気をした男女はまるで汚物であるかのように扱われ、芸能人ともなると干されてしまうことも珍しくありません。

そう。社会はそもそもわたしたち人間を、さまざまな不安に陥れる機能をもっているのです。映画「サーミの血」の主人公エレ・マリャはそのことに気づくのでしょうか?

その問いへのエレ・マリャの判断は、映画のラストシーンで描かれています。是非、あなた自身の目で確認してみてください。

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