恋愛にしろ、人生全般にしろ、アドラーは「運命の人」をいっさい認めません。
幸せになる勇気
「運命の人はいる」と信じている人は、アルフレッド・アドラーの主張を受け入れるわけにはいかないでしょう。果たして、運命の人はいるのでしょうか?いないのでしょうか?
予告動画:(500日)のサマー
以下、映画のネタバレを含みますのでご注意ください。
これはラブストーリーではない
『(500)日のサマー』は、「作者からの覚書」という字幕ではじまります。「作者」とは、この映画の脚本家「スコット・ノイスター」です。「作者からの覚書」という字幕の後に、こんなメッセージが続きます。
この作品はフィクションです。登場人物が誰かに似ていたとしても、それはまったくの偶然です。
ジェニー・ベックマン、お前のことだよ、ビッチ!
(500)日のサマー
実は……『(500)日のサマー』は、脚本家「スコット・ノイスター」が、元カノ「ジェニー・ベックマン」との恋愛を描いた作品なのです。
スコット・ノイスターはシナリオを仕上げてすぐに、元カノのジェニー・ベックマンにシナリオを送って読んでもらったそうです。すると元カノのジェニー・ベックマンは「すごく良かった。トムくんに共感した」と感想をくれたそうです。(トムは『(500)日のサマー』の主人公、役:ジョセフ・ゴードン=レヴィット)
そう。元カノのジェニー・ベックマンは、自分自身が『(500)日のサマー』のヒロイン「サマー」(役:ズーイー・デシャネル)のモデルだと気づかなかったのです。そのため冒頭に「ジェニー・ベックマン、お前のことだよ、ビッチ!」と通告している……という経緯があるわけです。
とはいえ『(500)日のサマー』は、ラブストーリーでもなければ元カノのジェニー・ベックマンを貶めるような作品でもありません。むしろ元カノへの感謝を捧げている映画なのです。なぜならばスコット・ノイスターは、元カノとの出会いによって「一皮むけた」からです。
リアリストとロマンチスト
『(500)日のサマー』のヒロイン、サマー(役:ズーイー・デシャネル)と、主人公のトム(役:ジョセフ・ゴードン=レヴィット)は、対照的な性格をしています。
サマーは現実主義者で「運命の人なんていない」ということを信じています。その一方でトムは、「運命の人はいつか向こうからやってくる」と信じているのです。
対照的な信念をもっているサマーとトムが恋愛してどうなったのか?といえば、両者ともに次のステージに進むのです。ストーリーをひも解く鍵となっているのが映画「卒業」です。
トムは子どもの時、映画「卒業」を観て「運命がある」ことを信じます。しかし映画「卒業」は「運命なんてものはない」ことを表現している映画なのです。そう。子どもだったトムは映画「卒業」を誤解して理解してしまったのです。
わたしにも同様の経験があります。小学生3年生か4年生の時に、川端康成の「伊豆の踊子」を読んだのですが、ラストシーンの別れで男が泣いている理由がよくわかりませんでした。そう。経験が圧倒的に不足している子どもには、「わからないこと」がたくさんあるのですね。
映画の話だよ?
それなりにうまくいく可能性のあったトムとサマーが別れるきっかけとなったのが、映画「卒業」の鑑賞でした。映画「卒業」を鑑賞したあとに号泣するサマーに向かって、トムは「なんで泣いてるの?しょせんは映画の話だよ?」と声をかけるのですが、このトムの発言がサマーの気持ちを完全に冷ましてしまったのです。
現実主義者のサマーは、映画「卒業」を鑑賞して「愛」というものがあることをはじめて理解しました。だから感動して泣いているのです。しかしトムはサマーの気持ちを理解できずに、トンチンカンな発言をしてしまったのです。
そしてサマーは悟りました。「わたしの結婚相手はトムではない」と。
もちろんサマーが悟った「愛」は、トムが信じている「運命の人はいつか向こうからやってくる」的な【愛】ではありません。サマーが悟った「愛」は、「将来どんな苦難が待ち受けていようと、二人で乗り越えて幸せを手に入れる」という覚悟のある「愛」なのです。
だから「運命の人はいつか向こうからやってくる」的な発想をする受動的な男ではなく、「運命の愛は能動的に獲得するものだ」という信念を行動に移す「ナンパ男」と結婚することをサマーは決意するのでした。
捨てられた男の悟り
現実主義者だったサマーですが、現実を踏まえつつ「愛」の存在を受け入れる「一皮むけた女」に進化します。「一皮むけた女」には、ロマンチストな男(つまりトム)は物足りなく感じて当然です。だからトムは、あっけなく捨てられてしまったのです。
しかし……サマーを失ったトムは絶望を乗り越えて最後には悟るのです。自分のアイデンティティーと「運命なんてものはない」ということに。そしてサマーとの出会いと別れによって、「一皮むけた男」になったトムは、自分を変えてくれたサマーに感謝を捧げるのですが……最後に一言。
トムにサマーとの愛を成就させるチャンスはなかったのでしょうか?
「初恋はうまくいかない」といいますし、わたしの初恋もうまくいきませんでした。スコット・ノイスターが映画「卒業」を間違って解釈して大人になったように、わたしも川端康成の小説「伊豆の踊子」を間違って解釈したまま大人になりました。
だからスコット・ノイスターが、『(500)日のサマー』のなかに「サマーと結婚して幸せになる可能性」をさりげなく描いていることに気づいて、切ない気持ちになりました。
現実主義者のサマーを「愛」に気づかせることのできた可能性が、実は映画「卒業」よりも前のタイミングにちゃんとあったのです。もしトムがそのことに自覚的であったならば、トムはサマーと結婚していたかもしれません。
あなたは「サマーと結婚して幸せになる可能性」を描いたシーンに気づくことができるでしょうか?(ヒント:トムのアイデンティティーが発揮された瞬間)
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