家族・地域の空洞化と日本的学校化が平行して進行することで、尊厳のリソース不足が生じました。その反面、学校でちょっと成績がいい程度のことで、学校でも家庭でも地域でも全面的に肯定される状況も生まれました。
しかしこのような状況は、社会にも個人にとっても危機をもたらすのです。
社会への恩義
わたしは新卒のキャリアを外資系コンサルティングでスタートさせましたが、優秀な同期社員がたくさんいました。なかには日本銀行と、某地方銀行と、外資系コンサルティング会社のすべてで内定を勝ち取った同期社員もいました。
東京大学法学部卒のその同期社員は、自分の出身地である某地方銀行に入社するか悩んだそうですが最終的には、「故郷に貢献したいなら今、外資系コンサルティング会社に入社しておいたほうがいい」と判断し、わたしと出会ったわけです。
またわたしの尊敬する小室直樹という在野の社会学者は、貧しい母子家庭で生まれ、学校で食べる弁当もないひもじい状況だったそうですが、「アイツは優秀だ」ということで、地域の人たちがお金を出してくれたため、京都大学へ進学することができたそうです。
そのような背景があった小室直樹先生は、社会から受け取った贈与(リターン)を社会に返す(反対贈与)という志をいつまでも忘れなかったそうです。
ソイツを信じられるか?
かつてのわたしの同期社員や小室直樹先生のような人たちばかりが政治家や官僚であれば、信じてもいいかもしれません。
なぜならば彼ら自身が「かつて自分を救ってくれた社会を維持するために恩義を返す」という動機をもっているため、社会メチャクチャに壊すことはしないだろうと予想できるからです。
しかしここからが肝心なポイントなのですが……地域が空洞化し日本的学校化によって、ちょっと成績がいいくらいのことで家庭でも学校でも地域でも全面的に肯定されてきた人間が、「社会のために」働いてくれるでしょうか?
もしエリートたちに社会への貢献動機のかわりに、単なる蓄財動機しかないのであれば、日本という国民共同体は崩壊に向かうでしょうし、残念ながら……現にそうなっています。
社会と距離を置く人々
学校化による社会の危機についてお伝えしてきましたが、尊厳のリソースに乏しい学校化は個人にも危機をもたらします。
家族や地域が空洞化し、それを埋め合わせるコンビニや宅配などが発達したおかげ(?)で、他者との社会的交流抜きで基本的な社会生活が送れるようになりました。(安心・便利・快適!)
「他者とのわずらわしいコミュニケーションなんてないほうがいい」「便利になったんだからそれでいいじゃない?」と多くの日本人は思うでしょうが、アドラーの思想を理解したあなたであればすぐさま落とし穴に気づくはずです。
アドラーは「他者貢献⇒自己受容⇒他者信頼」のスパイラルを回すことを推奨します。もし他者との交流がなかったら、どうなるでしょうか?
そう。アドラーが主張する意味での「自己受容」も「他者信頼」も育てることができないのです。裏を返せば、自己受容(≒尊厳)を獲得するためには、他者との社会的交流における試行錯誤が必要不可欠なのです。
しかしここからが重要なポイントなのですが……現代日本においては、他者との交流抜きで基本的な社会生活が送れてしまうため、他者や社会とまったく無関連な場所に、自らの尊厳を樹立することができるようになってしまっているのです。
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