かつて某大企業は、新人社員研修で残酷な対応をしていたそうです。
会社が「有望」と判断した社員はピカピカのイスに座らせる一方で、出世コースから外れている社員は、あえて「ボロボロの」パイプ椅子に座らせていたそうです。
当時のわたしは「そんなこと本当にあるのかよ」と思いましたが、同様のシステムを組み入れている組織は珍しくありません。
漢字・カナカナ
たとえば日能研の実力判定テスト。成績優秀者上位20名までは、結果発表の冊子の表紙に名前が記載され、トロフィーまでもらえるのだそうです。
そしてそれ以降の成績優秀者50名までは、見開きの最初のページに漢字で名前が載るそうで、それ以降の順位はカタカナで発表されるのだそうです。
とにかく模試の成績で自尊心の在り方を評価・決定するやり方で、いい成績をとることの快感、達成感、勝ち抜くことの喜びを子どもたちに刷り込んでいくわけです。
このような「マインド・コントロール」的なシステムを勉強の動機付けに取り入れた予備校のノウハウには、賛否両論あるでしょうが、わたしが知る限り30年以上続いているので、「効果がある」のでしょう。
しかしマインド・コントロール的なシステムにも弊害があります。
そこに東大があるから東大にいく
たとえばわたし自身がそうだったのでわかるのですが、偏差値の高い進学校になればなるほど、「東京大学以外は全く考えられない。他に選択肢はない。」と錯覚しがちになります。
もちろん医学部とかアメリカの有名大学を目指す場合にはその限りではないのですが、「勉強以外で頑張ればいい」という意識が極めて希薄になり、視野が狭くなってしまうのです。
冷静になって考えてみれば、勉強ができたとしても他の選択肢を目指してもいいわけです。たとえば俳優を目指すとか、映画監督を目指すとか、スポーツ留学を目指すとか、就職して起業を目指したっていいわけです。
しかし単に成績がよいという理由だけ評価されるシステムに慣れてしまうと、東京大学を目指して官僚または、大企業のエリートを目指すことが「すべて」であると錯覚してしまうのです。
なぜこのような話をしたのかといえば、これまでの話の流れから、「学校が悪い」、「受験勉強が悪い」のだという誤解をしてほしくないからです。
無自覚が悪いのだ
これまでわたしは受験勉強というシステムを批判したことがありました。また「(日本的)学校化」に否定的な説明をしてきました。しかし単純に受験勉強が悪いというわけではありません。
むしろわたしが批判したいのは、日本社会全体として子どもを受験戦争に巻き込むことが、どういう人材の偏りを生み出すのか?という点について、現場の教員たちや親が「無自覚」であるという点なのです。
わたしは勉強すること自体を批判しているのでもないし、受験を批判しているわけでもありません。先進国において、10代の子どもたちが激烈な試験競争を繰り広げること自体は、当たり前のことだと思っています。
むしろ試験競争の総量という点では、むしろ日本が一番甘いのではないでしょうか。たとえばアメリカの大学生と日本の大学生を比較すれば、宿題の量も一日の勉強時間も、激烈な競争に晒される期間の長さも桁違いに「ゆるい」と思うのです。
では何が問題なのかといえば、繰り返しになりますが、受験勉強をすることが、どういうゲームに参加することなのか?ということが、現場の教師にも親にも生徒にも自覚されていないことが問題なのです。
子どもの視点からいえば、受験戦争なら受験戦争というゲームの特殊性を自覚することが重要です。教師の側からすれば、知識を教えるというゲームの特殊性を自覚することが重要です。
つまり「意識的な選択」によって特殊なゲームに専念し、そのことが引き起こしうる事態について責任を負う態度があるなら、「トコトンやれ!」とすら考えています。
しかし日本では「(日本的)学校化」により、多元的に所属できる社会環境が整備されていません。たとえば「文武両道」という言葉があること自体、「(日本的)学校化」の弊害があることの証明だと思っています。
あえて「文武両道」という言葉を口にするとき、「勉強ができない子が、スポーツの道に進むのです。」といった無意識の前提があるのではないでしょうか?
あくまでも「勉強ができる」(偏差値が高い)ということがもっとも重要な価値観としてあって、その上で、勉強以外のスポーツや芸術といった選択肢が序列化されているように感じるのです。
そもそも「文武両道」がいいことだという主張自体に疑う余地はないのでしょうか?
あなたはどのゲームに参加する?
強調したいことは、自分が参加するゲームに勝つことが、ゲームの外側にある世界のなかでどのような意味をもっているのか自覚することが重要だ……ということです。
どのゲームに参加するのが重要なのか?という話をしているのではありません。どのゲームに参加するか?ということを、自分の意志で選択しているか?ということが重要なのです。
「自分が参加するゲーム」とは、受験勉強だけではありません。お金を稼ぐ、出世する、SNSでいいね!を集めるなど、あらゆることに当てはまります。
もちろん模試でいい順位を獲得することは、重要なことでしょう。お金を稼ぐことも、出世することも、SNSで承認欲求を満たすことも重要でしょう。
しかしあくまでもそれぞれのゲームのなかで勝った負けたの話をしているのであって、「それがすべて」だと勘違いすれば、「本当に勉強(お金を稼ぐ・出世 etc)することに価値があるのか?」といった悩みを抱えるハメになるでしょう。
なぜならば「あえて」そのゲームに参加していることをプレイヤーである当事者が自覚していなければ、「本気」にはなれないと思うからです。なぜ本気になれないのでしょうか?
当事者の立場になって考えてみればすぐにわかってもらえると思うのですが、「自分が選択している」という自覚がなければ、「責任感」が生まれないからです。
あなたは「本気」か?
「勉強しろといわれたから勉強しているが、自分が選んだ道ではない」という自意識でいる限り、いつまでたっても本気にはなれないでしょう。
受験勉強に参加しているのも「なんとなく」、お金を稼ぐのも「なんとなく」、SNSでいいね!を集めるのも「なんとなく」といった、ぼんやりした自意識から抜け出すことが重要です。
勘のいい方ならお気づきかもしれませんが、「なんとなく」の自意識から抜け出す鍵になるのが「第三の帰属」(アイデンティティー)あるいは「第四の帰属」です。
第四の帰属をもたらしてくれるものとしては宗教や天皇がありますが、それらにこだわる必要はありません。たとえばアドラーの思想には「導きの星」、釈迦の思想には「縁起」、コーチングには「ゴール」という概念があり、それぞれについては詳しく説明してきたつもりです。
とはいえ、残念ながら日本の学校教育では「第三の帰属」や「第四の帰属」の存在が、徹底的に隠蔽されています。
というよりも正確にいえば「隠蔽」というよりも、「第三の帰属」や「第四の帰属」という概念がないからこそ「(日本的)学校化」が進行したわけで、そのことが「(日本的)学校化」に歯止めが利かない原因になっていると思うのです。
コインの表と裏
アドラーの思想を紹介する上で、岸見一郎先生は「勇気」というキーワードを持ち出しましたが、「勇気」がコインの表であるなら、コインの裏には「責任」があると思います。
近代市民社会における「責任」(レスポンシビリティ)とは、同じ共同体や組織に属さない他者たちとの共生に必要なルールや想像力からやってくる要求、あるいはそうした他者たちから直接なされる要求に、いかに応えるか(レスポンスするか)、ということです。
原子力発電を推進するのだとすればそれはなぜなのか?死刑制度を続けるのであればそれはなぜなのか?難民を受け入れないのだとすればそれはなぜなのか?同性婚を認めないのであればそれはなぜなのか?
日本政府はいろいろな説明をしていますが、要約すれば「日本には日本のやり方がある」という主張を続けるばかりです。誤解を恐れずいえば「なんとなく」やっているのです。
その証拠に、日本では「責任」の所在が極めて不透明です。全員に責任があるようで、全員に責任がないという状況が当たり前のように温存されています。
あなたの選択は?
さて、近代社会における「責任」についての説明しましたが、個人における『責任』概念について、もう一歩踏み込んで考えてみましょう。
個人における『責任』はいつ生まれるのでしょうか?
いろいろな選択肢があることを自覚した上で、「あえて」それを選択した時、『責任』が生まれます。
あなたの人生の責任をとれるのはあなたしかいません。とするなら、「自分がそれを選んだのだ」という自覚は必要不可欠でしょう。
もし『嫌われる勇気』をもて!、『幸せになる勇気』をもて!、アドバイスされてもピンとこないのであれば……もしかしたら自分は、ゲームに無自覚に参加しているのではないか?……と疑ってみるべきではないでしょうか?
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