実は……学校教育は、近代天皇制による人為的な所属一元化を推進するために利用されてきました。(例:教育勅語!)
キリスト教における神がキリストなら、日本教(?)における神は天皇であり、「第四の帰属」領域にいる存在でした。
しかし……日本の近代化を達成する上できわめて有効だった近代天皇制的なやり方にも限界があったのです。
八紘一宇
近代天皇制は、人々をイエやムラから離脱させて国に帰属させることに成功しました。しかし近代天皇制には、拡張性の面で難点があります。
もし近代天皇制的なやり方のまま国の勢力を拡張しようとすると、世界全体を「天皇陛下の赤子」にするという「八紘一宇」的な狂気に陥ってしまうのです。
もちろん戦後日本において、天皇が再びかつての「神」(≒第四の帰属)としてのポジションにおさまることはないでしょう。
その証拠にかつて森喜朗首相(当時)は、「日本は天皇を中心とする神の国」と発言し、内閣支持率を2割以下にまで下落させました。
その事実からもわかるとおり、日本を「一君万民」に戻してくれなどと望む人が多数を占める時代は、未来永劫やってこないでしょう。
おそらくあなただって、日本が「天皇を中心とする神の国」になることを望んではいないはずです。しかし「神」がいないことはある問題を引き起こすのです。
ふたたびムラビトへ
日本の国民形成の基礎にあったのは「天皇的なものに対する帰依(きえ)」でした。しかし戦後の占領政策のなかでアメリカは、日本の恐るべき国力を支えていたムラを超える強力な動機づけ(一君万民)を解除しました。
わたしたちは「一君万民」や「天皇の赤子」であるという自意識から解放されました。そして圧倒的な「経済的豊かさ」と、「政治的な自由」を手に入れました。それらが戦後日本人の尊厳のベースとなったことは間違いないでしょう。
しかし「天皇的なものに対する帰依」が失われれば、日本人は再びムラビトに戻るのです。そのことは作家の三島由紀夫など一部の知識人にとっては1970年代の時点で明らかなことでした。
つまりこういうことです。戦後アメリカは近代天皇制的な疑似公共性(一君万民)を消し去りました。そのかわり日本人に「政治的自由」を与えてくれました。
そして日本は、アメリカの核の傘の存在を前提にした「公共財を自ら守るためにお金を使わなくてよいという立場」を最大限利用しつつ、国民的努力によって「経済的豊かさ」を達成しました。ひらたくいえば、防衛費を公共投資に回すことができたのです。
「経済的豊かさ」は、近代的パブリック・マインドの不在を覆い隠してくれました。「神なんていなくても経済的に豊かなら幸せになれるはず!」ということを信じて努力することが、日々の活力を与えてくれたのです。
要するに敗戦と経済成長という「共通体験」があったからこそ、かろうじてわたしたちは「同じ日本人」という意識を保つことができたのです。
ところが1970年代に突入し、経済的豊かさという国民的目標を達成したあとの成熟社会がはじまると、雲行きが怪しくなってきます。
国民的目標の喪失
経済的な豊かさという国民的目標は達成した後に、次なる国民的な目標をどこに設定すればよいか、日本人はわからなくなってしまったのです。
近代的パブリック・マインドの源泉となっていた天皇という名の神はもういません。日本人はムラビトに戻りました。ムラビトは近代的パブリック・マインドをもたない存在です。
近代的パブリック・マインドをもたないということは、異なる共同体に所属する人たち、あるいはどの共同体にも属さない人たちに対して、互いに侵害し合わないで共生するためのルールや想像力の欠如を意味します。
近代的パブリック・マインドをもっと端的にいうなら「何事も他人は他人」ということです。
しかし日本人には近代的パブリック・マインドを支える「神」がいません。そのため「共生する」という意識が希薄なため、自分が所属する集団の価値判断で、ついつい他人を評価してしまうのです。
同性婚を認めたら国を捨てる
たとえば岸田総理の秘書官をつとめていた荒井勝喜氏は、LGBTに対する嫌悪感を隠すことができませんでした。
「隣に住んでいたら嫌だ。見るのも嫌だ。」「社会に与える影響が大きい。マイナスだ。秘書官室もみんな反対する。」「人権や価値観は尊重するが、同性婚を認めたら国を捨てる人が出てくる。」などとコメント。
国の総理の秘書官の頭には「共生」の2文字はなく、あくまでも自分の内輪の視線にしか興味を持てなかったのでしょう。
おそらく荒井勝喜本人も「わたしは自民党保守層の思想を代弁しただけ」という感覚なのでしょうし、そもそも発言も「オフレコ」でした。(オフレコを報道するタブーを犯したことについて、毎日新聞は釈明しています。)
興味深いのは自身の発言が炎上したあとの釈明発言です。荒井氏は「個人の意見であり、公職においての意見では全くなかったが、個人的な意見であっても言うのは望ましくない。」とコメント。
つまり荒井氏は、「個人の意見」と「公職においての意見」がそれぞれ独立して存在しており、個人としては同性婚の法制化について全否定するが、首相秘書官としては同性婚の法制化に前向きという支離滅裂な状態を肯定しているわけです。
校長先生が援助交際
パブリック・マインドの欠如は、日本人にとっては宿痾(しゅくあ)です。昔から日本人はそうなのであって、逆にそうでなかったことがありません。
いつも所属集団の内輪の視線しか感じることができないのです。
たとえば内輪が「オラが町」である場合には、校長先生や教頭先生が隣町に行って女子高生たちと援助交際します。
また内輪が「国家」である場合には、韓国でキーセン観光(売春観光)したり、タイで少女を買春するのです。
日本人は子どもから大人まで内輪の視線しか感じることができず、内輪が小さいか大きいかだけの違いしかないのです。
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