「そもそもなぜ社会を生きることがツラいのか?」ということを解説するのにピッタリな映画を一本紹介します。
予告動画)CURE
言語が無意識を構成する
ダチョウ倶楽部の熱湯芸が面白い理由のひとつは、上島竜兵が「絶対に押すなよ!」とアピールするほど「絶対に押す」という欲望が強くなるからです。
「絶対にこれをやれ!」といわれると「やりたくなくなる」し、逆に「絶対にこれをやるな!」といわれると「絶対にやりたくなる」のが人間の性なのです。
民話の「雪女」では、雪山で男が雪女に殺されそうになりますが、「私と会ったことを絶対に誰にも話さないなら、活かしてやろう」と約束して生き延びます。
その後、「お雪」という美しい女性が男のところにきて、結婚してくれます。男とお雪は子宝にも恵まれて幸せに暮らすのですが、男はふと妻に「昔、こんなことがあってね」と雪女のことをつい話してしまいます。
するとお雪が「あなた!約束をやぶったわね!」と雪女の正体を現して、山に帰ってしまうのです。夫が昔の女性体験をうっかり話すのはやめたいほうがいいというアドバイスですね。
言語による願望の抑圧
フロイトによれば「慇懃(いんぎん)であれかし」という願望は、言語の二項図式【慇懃/無礼】の働きのせいで、「無礼であれかし」という願望の抑圧をともない、それが無意識を構成します。
例えばあなたが見知らぬおじさんに「大丈夫。何もしないから」と声をかけられたらきっと「この人は何かしたいことがあるのに、それを我慢しているのではないか?」ということを直感し、逆に警戒するでしょう。
わたしたちの社会は言葉で秩序が規定されます。「赤信号を渡るな」ということも言葉で表現されます。しかし言葉で表現される以上、「赤信号を渡れ!」という欲望から逃れることができないのです。
そう。社会をうまく生きようとすればするほど、言語的な営み(≒法的な使用)は、否定項を無意識に蓄積する必然的な働きにより、社会の破壊やルールからの逸脱を享楽的に欲動させるのです。
つまりどんなにうまく幸せに社会を生きている人間も、うまく社会を生きているがゆえに言語的な営みの影響から逃れることができず、だからこそ社会からの離脱すなわち「自由」を享楽的に望むのです。
幸せな人間が人を殺す
言語使用に伴う否定項の蓄積が無意識を構成します。映画「CURE」に登場する間宮は、無意識を解放する存在です。その証拠に幸せな人間から真っ先に、間宮のガイドに従って殺戮行為に躊躇なく手を染め、真の自由を獲得して癒される・・・・・つまり「CURE」されるのです。
社会をそれなりにうまく生きているであろうあなたも、きっと「CUREされたい」と願っていることでしょう。仕事を頑張らなきゃと思えば思うほど「会社を辞めて自由になりたい」と思うようになり、「いい妻でありたい」と願うほど「家族から自由になりたい」という無意識が構成されていくのです。
言語使用に伴う危険性を回避して、「真の自由」を獲得するためには言語を超えるしかありません。そう。「なんとなく感じること」は、おそらくあなたが思っている以上に重要なことなのです。