プライドの高い人間をどう教育していくか

家系ラーメンの創始者『吉村家』会長の吉村実氏は、中学校の卒業証書ももっていない人から東大卒まで300人以上の人間を育ててきたそうですが、「プライドの高い人間をどう教育していくか」が難しいと語ります。

プライドを捨てる

わたしは新卒で外資系コンサルティング会社に入ったのですが、新卒社員には知らされていない「試練」がありました。

「とにもかくにもプライドを粉々にする」という部署のボスの教育方針があり、わたしを含む同じ部署の同期4人は「安いプライドは全部捨てるしかない」と自分で気づくまで、ボロボロになるまで追い詰められた経験を持っています。

商社マンから落語家に転身した立川志の春さんは、同様のエピソードを教えてくれます。立川志の春さんは、落語家の修業中に、「自分をゼロにして師匠のことだけを考えろ!」と徹底的に教え込まれたそうです。

これまでのキャリアとまったく異なる世界に飛び込むには、肩書や快適な環境を捨てる覚悟が必要になります。

それまで自分自身が思い描いていた「自分らしさ」や「個性」の概念を、一旦壊す必要もあります。

いや、自ら壊すまでもなく、まずは徹底的に粉々に壊されるかもしれません。

自分を壊す勇気

さて、そもそもプライドってなんでしょうか?

プライド VS 自己信頼

自己責任でなされた他者への試行錯誤(他者貢献)によって培った自信が「自己信頼」であり、他者貢献を抜きにした「わたしはスゴイ」という思い込みが「プライド」です。

冒頭で紹介した吉村実氏はプライドの高い人材への教育に頭を悩ませているわけですが、そもそもなぜプライドの高い人間ばかりが量産されているのかといえば……やはり……「学校教育」の影響は無視できないでしょう。

日本の学校教育は偏差値教育であり、受験勉強に必要なのは「他者への試行錯誤」ではなく「参考書と向き合う時間」です。

偏差値というモノサシがあって、偏差値50以上(以下)は「オレは平均以上(以下)だ」と認識するわけですから、プライドの高い人間や、自分に自信がもてない人間が量産されるのは、むしろ当たり前なのです。

ひきこもり・ストーカー

日本的学校化は、学校以外の社会とのかかわりを抜きにして「子どもの教育を学校が抱え込む」現象です。その結果、「他者信頼」⇒「他者貢献」⇒「自己受容」のスパイラルを回すチャンスが奪われます。

他者から承認されるチャンスを奪われた人間は、他者に承認してほしいあまり、周りの期待に反応しすぎたり、周りに遠慮して意見を言えなくなったりします。(アダルトチルドレン!)

また他者から承認されるチャンスを抜きにプライドを育ててきた人間は、必ずいつか社会に出た時に「プライド」と「自己信頼」との乖離に悩まされます。

プライドと自己信頼の乖離に気づいた時に、他者との交流によって自己信頼を積み立てていければよいのですが、残念ながらそうなるとは限りません。

プライドと自己信頼が乖離した者の多くは、プライドを温存できるシェルターに退却するか(ひきこもり)、他者によるプライドの否定を受容できずに認知的歪曲(ストーカー)をしてしまうのです。

とはいえ、アダルトチルドレンにせよ、ひきこもりにせよ、ストーカーにせよ、他人からの承認を求めているという意味では健全です。

割合としては少ないですが、他者から承認されない環境に適応してしまい、「承認?なにそれ?」とばかりに、他者との交流と結合した尊厳(つまり自己信頼)を投げだす「脱社会的存在」も存在します。

無敵の人

脱社会的存在とは、ひらたくいえば「無敵の人」です。無敵の人とは、Wikipediaによれば、もともとは西村博之氏が2008年にブログで提唱されたとされる言葉です。

本来人間は、逮捕されると職を追われたり社会的な信用を失うことから、犯罪行為に手を染めることを躊躇する。ところが元から無職で社会的信用が皆無な人には、逮捕されることがリスクにならないため、『刑務所もそんなに悪いところじゃないのかもね』程度の環境の変化にしかすぎなくなる。

Webio

「無敵の人」の発案者は西村氏でしたが、「無敵の人」という言葉を有名にしたのは「黒子のバスケ脅迫事件」でした。

威力業務妨害罪に問われた渡辺博史(わたなべひろし)被告は、公判の意見陳述で次のように述べています。

自分のように人間関係も社会的地位もなく、失うものが何もないから罪を犯すことに心理的抵抗のない人間を『無敵の人』とネットスラングでは表現します。これからの日本社会はこの『無敵の人』が増えこそすれ、減りはしません。

LITERA

渡辺被告のいうとおり、これからの日本社会は『無敵の人』が増えこそすれ、減りはしないでしょう。その理由を説明するために、フロイトの精神分析を体系的に発展させたジャック・ラカンの思想を紹介します。

ファロスの切断

ジャック・ラカンは、フランスの精神分析者です。幼児が自分の身体の統一イメージを獲得する鏡像段階から、多様な同一化の結果としての創造的統合を経て、言語活動のように構造化された象徴的段階に至る自我形成過程を説いた人物です。

ひらたくいえば……

幼児は鏡に映った自分の姿を、母親によって「そう、それはお前だよ」と保証されることで、初めて赤ん坊は、自分を自分と認識します。(鏡像段階)

そしてお父さんとか、お母さんとか、運転手さんなどの役割を演じる「ごっこ遊び」によって、それぞれの役割になった時に世界がどう見えるのかを習得します。(創造的統合)

以上、ラカンは、乳幼児期の子どもが幼児的全能感を生き、自分と他者の区別があまりついていないような状態を『想像界』と呼びました。

さらにラカンは、『想像界』を離脱させて『象徴界』(≒言語的世界)を獲得するためには「ファロスの切断」が必要だと考えました。

ファロスの切断(≒去勢)というのはもちろん比喩です。ファロスの切断とは……

幼児的万能感に無理やりに楔(くさび)を打ち込んで、そこに「他者」すなわち自分と同格でありつつ自分の自由にならない存在を登場させ、同時に「他者」とのコミュニケーションを通じて世界と関わらない限り、何事も達成できないことを当たり前のこととして受け入れさせるプロセスのことです。

日本的学校化≒無敵の人量産化

ラカンの理論を前提にすると……ファロスの切断が不十分ならば、人はコミュニケーションを通じて何かを達成できるという可能性を想像不可能になり、一定の割合で「脱社会化」した人間つまり「無敵の人」が誕生することになります。

日本的学校化は、学校以外の社会とのかかわりを抜きにして「子どもの教育を学校が抱え込む」現象でした。極端な話、友達をつくらなくても知識社会と関わらなくても、勉強ができれば「お前はすごい!」と褒められてしまうわけです。

そうやってプライドを育ててきた大人はいわば幼児的全能感を切除されていない状態ですから、大人になっても「他者」による否定を受容できず、ひきこもったり、ストーカーになったり、脱社会的な存在(≒無敵の人)になってしまうわけです。

わたしは社会人になってから「プライドを木っ端みじんにされる」という経験をして、ファロスを切断されました。エリート街道まっしぐらだった立川志の春さんも、落語の世界に足を踏み入れてファロスを切断された一人です。

残念ながらプライドの高低は、人生すごろくの世界(いい学校、いい会社、いい人生)でしか、意味を持ちません。そして人生すごろくの世界は、すでに崩壊しています。

あなたはプライドが意味をもたない世界で、「自己信頼」を培うことができるでしょうか?

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