たしかにアドラーの名付けた「個人心理学」という名称は、誤解を招きやすいところがあるかもしれません。ここで簡単に説明しておきましょう。まず、個人心理学のことを英語では、「individualpsychology」といいます。そしてこの個人(individual)という言葉は、語源的に「分割できない」という意味を持っています。(中略)
要するに、これ以上分けられない最小単位だということです。それでは具体的に、なにが分割できないのか?アドラーは、精神と身体を分けて考えること、理性と感情を分けて考えること、そして意識と無意識を分けて考えることなど、あらゆる二元論的価値観に反対しました。
【出典:嫌われる勇気(p.175)】
『個人心理学研究誌』の初代編集長のフルトミュラーは、個人心理学に込めた想いを「すべての心理的洞察は個人から始まるという確信」と説明していました。
しかし冷静に考えてみれば、「すべての心理的洞察は個人から始まる」というのは、当たり前のことではないでしょうか?すべての心理的洞察が「個人」以外にあるとするなら、どこにあるというのでしょうか?
個人心理学の出発点が「精神分析」だったことを思えば、精神分析の原点に立ち戻ると話が分かりやすいと思います。
精神分析の原点
フロイトはキャリアの序盤ですぐさま「精神分析」に着手したわけではありません。フロイトは高等学校を卒業後、生理学や脳解剖を研究していました。ですから医師としてのキャリアの序盤においては、神経症の原因を器質的疾患(臓器や組織に明らかな物理的・構造的な異常が見られる疾患のこと)に求めていたのです。
しかしフロイトは患者を観察した結果、器質的疾患に還元できない症例を目の当たりにすることで考えの幅を広げていきます。たとえば当時、ヒステリーと言えば女性の病気だというのが医師会の常識だったのですが、フロイトは男性もヒステリーになることを発見し、医師会にその症例を報告しています。
残念ながら医師会の反応は、フロイトを落胆させるものでした。フロイト曰く、ある年老いた外科医は、フロイトのこう言ったそうです。
まあ君、よくもそんな馬鹿げたことがいえたもんだね。ヒステロン(彼のお言葉通り!)とは子宮のことだよ。一体どうして男がヒステリーになれるんだい。
【出典:フロイト自伝】
フロイトは器質的疾患が、神経症の原因になること自体は認めています。しかしフロイトは、器質的疾患がないにもかかわらず、ヒステリーなどの神経衰弱に悩む人が、都市部にはたくさんいる事実を直視していたのです。しかも器質的疾患がないにも関わらず神経衰弱に悩んでいる人は、医師から医師を渡り歩いても症状が改善しないので困っていたそうです。
フロイトは、精神的な障害を身体的な障害から説明することは絶望的であることを悟り、患者の心には、自分の心で向き合う他はないことを確信していたのです。
フロイトの怒り
フロイトが精神分析をはじめた経緯を踏まえれば、フロイトは生理学や解剖学と、心理学を分離したかったのでしょう。
解剖学は古代ギリシア時代からはじまりました。心理学は、ドイツの心理学者ヴィルヘルム・ヴントが1879年にライプツィヒ大学に世界初の心理学実験室を設立したことが、その始まりとされています。ヴィルヘルム・ヴントは、生理学の実験的手法を導入し、実験心理学の基礎を築きました。
そしてフロイトの初期の著作である『夢診断』の出版が1900年です。フロイトは『心理学の三大巨頭』などといわれていますが、フロイトが聞いたら間違いなく激怒すると思います。
なぜならばフロイトの精神分析は、生理学でも解剖学でもなく、なおかつ(フロイト以前の)心理学でもないものとして発明されたからです。そのことはフロイトのアドラーに対する口ぶりからも推測できます。
アードラーは更に遠く精神分析学から遠ざかってしまったと思われる。彼は性欲の意義一般を否認し、性格形成、神経症形成を専ら人間の権力追求及び体質的な劣弱性の代償物への要求に還元し、精神分析学の心理学的新発見をすべて馬耳東風と聞き流したのであった。
【出典:フロイト自伝】
つまり性格や神経症を、ひとりひとりの体質と結びつけるアドラーの態度は、フロイトにいわせれば生理学もしくは一般心理学(フロイト以前から存在していた心理学)なのであって、断じて精神分析ではない・・・というのが、フロイトの主張だったわけです。
個人心理学の肝
フロイト以前の心理学には、生理学の実験的手法が取り入れられていたため、フロイトは「一般心理学」と呼んでいました。そして一般心理学から生理学のニオイのするものを切り取ったものが精神分析であり、精神分析とはフロイトからいわせれば「純粋心理学」だったのでしょう。
その一方でアドラーは「精神と身体を分けて考えること」だけでなく、「意識と無意識を分けて考えること」にも反対しました。フロイトが激怒しないわけがありません。
せっかくの機会なのでもう少し補足しておくと、フロイトの「精神と身体を分けて考える」思想からすれば、「心(精神)と脳(身体)は別のもの」と考えるのが自然です。
一方で「精神と身体は一緒のもの」とするアドラーの思想においては、「心(精神)と脳(身体)は一緒」と考えるのが自然です。つまり個人のなかに、精神や脳といったものがそれぞれ存在するのではなく、個人の機能として心や脳があると考えるのです。
あなたはフロイトとアドラーのどちらの意見に賛成ですか?
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