アドラーの戦争体験

それだけではありません。大人になれば複雑な人間関係に絡まれ、多くの責任を押しつけられる。仕事、家庭、あるいは社会的な役割、すべてがそうです。無論、子どものころは理解できなかった差別や戦争、格差といった社会の諸問題も見えてくるし、無視できなくなります。違いますか?

【出典:嫌われる勇気 p.4】

アドラーは第一次世界大戦の経験者であり、戦争体験はアドラーの思想に強い影響を与えています。そこで今回は第一次世界大戦について、簡単にスケッチしておこうと思います。

第一次世界大戦

まずは基本的な事実を押さえておきましょう。フロイト・アドラー・ユングの全員が、第一次世界大戦の経験者です。ちなみに第二次世界大戦については、フロイトはドイツがポーランドに侵攻した1939年9月1日の約1年前の1938年6月にロンドンに亡命するも、1939年9月に亡くなっています。またアドラーはナチスから迫害されたものの、1937年に亡くなっているため第二次世界大戦は経験していません。なおユングは1961年になくなっていますから、第一次世界大戦と第二次世界大戦の両方を経験しています。

日本では第二次世界戦のことだけが話題になりがちですが、欧米人にとっては第一次世界大戦も同じく重要です。なぜならば第一次世界大戦は、人類の歴史上はじめての国民国家の総力戦だったからです。

国民国家の総力戦・・・ということの意味を現代日本人が理解するには、二重の困難があります。

国民国家

まず現代日本人にとっては当たり前の『国民国家』という概念自体が、当たり前ではないのです。フランスではフランス革命以降(1789-1790年)、その当時のドイツでは「われわれはドイツ人」という意識はありませんでした。

たとえばフロイトもアドラーも哲学者のニーチェに強い影響を受けているのですが、ニーチェ(1844-1900年)は「私は恐らく最後のヨーロッパ人になるだろう」という言葉を残しています。ニーチェはドイツ・プロイセン王国出身ですが、ニーチェ自身には「わたしはドイツ人」という意識はなかったのです。

総力戦

次に『総力戦』という概念も、現代日本人にとっては想像しずらいはずです。なぜならば現代日本人の大多数にとって、第二次世界大戦は教科書のなかの歴史の話であって、現実味がないという面もありますが、加えて、第二次世界大戦以降の戦争といえば『総力戦』ではなく『限定戦』だからです。

『総力戦』とはなんでしょうか?1914年に第一次世界大戦が勃発します。オーストリア=ハンガリー帝国はドイツと組み、イギリス、ロシア、フランスと対決したのですが、『総力戦』においては国粋主義が蔓延します。たとえばフロイトは「自分のリビドーは、すべてオーストリア=ハンガリーに属する」とまで宣言しています。同様にアドラーの友人たちも、第一次世界大戦を歓迎しました。

しかし『限定戦』となると、そうはいきません。作家の三島由紀夫の言葉を借りるなら・・・

限定戦争というものは当然総力戦体制の反対の戦争体制になります。ところが、限定戦争の最大の欠点は国論の分裂を必然的にきたすという事であります。なぜなら総力戦体制に入った場合にはどんな自由諸国でも国民の愛国心がおいに高揚されて、国民はいやでも、おうでも、祖国のために戦うという信念に燃えて立ちます。第二次大戦当時がそうでありました。ところが今は、一方で国家が国家の国際戦略に従って、限定戦争を行なっても、国内では総力戦体制がしかれておりませんから、これに反対する勢力は互角の勝負で戦うことができます。従って限定戦争があるところでは、かならず平和運動反戦運動が収拾出来ないような勢いで燃え上ります。

【出典:三島由紀夫と「天皇」】

ウクライナ戦争は、欧米とソ連の戦いですが、場所はウクライナに限定されています。欧米はウクライナへの支援はするけれど、自国民の命を危険にさらす気配は全くといっていいほどありません。

トラウマになる仕事

国民国家の総力戦である第一次世界大戦において、アドラーも戦争に参加します。アドラーは医師として南ウィーンの山中の病院に配属されるのですが、アドラーの役割は、負傷した兵士を前線の塹壕(ざんごう)に、できる限り早く戻すことでした。

アドラーは医師として戦争に関わることを嫌悪していました。特にアドラーの頭を悩ませたのは、精神的なダメージを追った兵士に対する非人道的な対応でした。

兵士が戦争で負うダメージには、肉体的なダメージもあれば、精神的なダメージもあります。たとえばベトナム戦争後にアメリカ本国に帰国し、心的外傷後ストレス障害を抱えた元兵士の存在が社会問題化しましたが、アドラーの仕事は、「戦争神経症」を抱えた兵士を、一日でもはやく戦場に戻すことだったのです。

当時は「戦争神経症」に対する理解など皆無に等しい状態でしたから、精神的なダメージを負った兵士に「戦争神経症」という病名が診断されることはなく、軍の公式診断は「臆病」でした。

軍は「臆病」な兵士を戦場に戻すために、病院を劣悪で不快極まりない環境にして、兵士たちを自発的に戦場に戻るように仕向けました。具体的には、重篤な「戦争神経症」の患者たちに電気ショック療法(?)を用いたり、冷水シャワーのなかに立たせたあとに裸のまま狭い独房に監禁して「隔離」したのです。

共同体感覚の開発

のちに「戦争の間、ずっと囚人のように感じていた」と語るアドラーは、強制的にさせられたトラウマになる仕事が引き金になって、『共同体感覚』という概念を開発します。

『共同体感覚』については別の機会に詳しく説明することにしたいのですが、当初アドラーは『共同体感覚』を「生まれもった人間のもつ欲動のうち、二番目に重要なもの」と位置付けていました。

アドラーは、生まれもった人間がもつ欲動のもっとも重要なものとして「意義へ向かう努力」を考えていましたが、「意義を向かう努力」は力への過剰な欲求を生みます。そこで力への過剰な欲求を抑える反対方向の欲動として、『共同体感覚』を位置づけたのです。

のちにアドラーは『共同体感覚』を、人間の生まれ持った欲動とは切り離して、後天的に鍛えられる能力のようなものと見なすようになりました。アドラーは『共同体感覚』を、共感にたとえ「相手の目で見、相手の耳で聞き、相手の心で感じることだ」と説明しています。

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